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窓のそと(Diary by 久野那美)
by 久野那美
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■洗濯物の分別の仕方について。
学生時代、「批評」(と呼ばれるもの)は(なぜだか)「一顧だに値しない廉価版の論理体系」であるかのように教わった。哲学科に在籍していたので、<アリストテレスから脈々と続く思想の流れや背景を知らずに狭い知識と感性の範囲で諸々論じることになんの価値があるのか(いや、無い)>いうことのようだった。

若い頃って、現代批評やら美術批評やらにちょっと興味あるし、共感した文章をがんがん引用して卒論を書いたら、<問題外>と問答無用で却下された。(哲学の文献から引用のない論文は無効」とか。)

そのままでは卒業できないので文献を集めて最初から全部書き直したんだけど、<哲学の知識なく論じられたものは個人の感想に過ぎない。個人の感想には意味がない>という考え方には納得しかねるとこっそり思った。「我こそは世の中の背景を知っている」と息巻く同じクラスの(偏見だけど特に男子)学生の言葉はどれも同じで魅力を感じられず、「意味がないのは<個人>ではなく<あなた>なのではありませんか?」と思っていた。統括するまで黙っているとか正確に調べて引用するとかいう才能のいる世界なのだと思った。意味はない、とは私は思わないけど、「それは哲学ではない」というならまあ、そうなんだろうと思った。で、哲学はやめた。

創作というのはその点すごく楽だった。引用しなくても怒られないところがとてもよかった。(なので、後に、戯曲に嘘八百書いた架空の本やら格言やらについて、「引用元が明記されていない」と注意されたことに心底驚いた。だまされた気分だった。)


以来、「すべてを統括的に把握できる知識のない者は語るな」という考え方は、根強くあるのは知ってるし、それが評価される世界があることも知ってるけど、私は横目で見てスルーすることにしている。単純に、みんなおんなじこと言うからいちいち聴く意味がないからだ。おなじ内容なら、淘汰された魅力的な批評家の本を読んだ方がいい。<正当な>意見を何度も聞くより正しいのも間違ってるのもいろいろ聞く方が楽しい。

面白いのは、私の記憶の中で「問題外」と却下されていた「批評」(と呼ばれるもの)も、また自らを世の中の背景や変遷を統括的に語れる指標だと認識していることだった。そして、それ以外のものを「一顧だに値しないと却下」することだった。「芸術批評の流れを知らずに個人の感想を述べることなど無意味である」と断言しつつ、「自分には哲学の知識は全くない」と同時に言うひとの話を聞いて「おお。」と思った

みんなそうなのかもしれない。魚に詳しいけど洗濯物に疎い人、家事全般を体系立てて語れるけど哲学の知識のないひと、古今東西の哲学の知識はあるけど芸術全般に興味のないひと、芸術批評を体系立てて語れるけど野鳥のことを何も知らないひと…。みんながそれぞれ、「我こそは世界の全体像を把握している」と思いながらそうでないひとの話を却下してるのだとしたら…^^;
世界はなんて立体的にできているのか…。

     ****

これは、あれだ。洗濯物の話と同じだ。

小学生の頃、お昼のラジオで、主婦が料理やら家事やらのやり方についてあれこれ意見を戦わせるコーナーがあった。大人になったら賢い主婦になろうと思っていた私は、その奥様番組を熱心に聴いていた

その日のテーマは「洗濯物の分別」についてだった。「洗濯物を分類せずにぜんぶ一緒に洗うなどあり得ない」というのが、番組にはがきを寄せた主婦たちの意見だった。その点ではみな、一致していたような気がする。
ただ、ある人は「上に着るものと下着とは一緒に洗えない。絶対に分けて洗わなければ」と言い、あるひとは「色物と白いものは絶対に分けなければならない」といい、あるひとは「外で汚れるものと食卓なとで清潔に使いたいものとは一緒に洗うわけにはいかない」といい、…もっといろいろあったけど、とにかく皆、<絶対に守らなければならないその分け方>が違うのだった。

色物と白い物を分ける人は上着と下着を分けて洗わないわけだし、上着と下着を分けるひとは外のものと中の物の区別には関心がないわけだし、外と中でわけるひとは色物かどうかは気にしないということで…。


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01月03日(金)
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