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窓のそと(Diary by 久野那美)
by 久野那美
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■作品に対して感想を言うこと
これが、よくわからない。
ほんとうに、わからない。

どうしてこんなにわからないのかとずっと悩んでいる。

この日記も、何回書きなおしてもうまくいかない。
私はこの問題について考えることさえ苦手なのだ。

作品を創った人から、

「どうだった?どう思った?」
「どうか忌憚のない意見を。」
「単純にいいか悪いか、率直な感想を。」

と感想を求められることがある。
いいかげんに言われるのならまだしも、相手が真剣であることはわかる。
悲しいことにそれだけはわかるのだ。

こんなときに言うべき言葉があるのだと思う。
そういうことが巧みにできるひとを知っている。
感想どころか、創り手もうなるほど的を射た批評をさらりと書ける人もいる。しかも、そういうひとに批評してもらうと創り手は充実感を感じたり楽しかったりするのだということも実感して知っている。

なのに私にはうまくできない。
申し訳ないし、情けないし、なんだか途方もなく悲しい。


「この作品は(この舞台は)・・・・」を主語にして言葉を続けるにはどうすればいいのかわからない。

他人の創った作品というのはこの世で最も「私にはどうしようもないもの」であり、それについて語るには私はあまりにも関係ないところに立ち過ぎているのではないか・・・・というのは言い訳か。

私が語ることができるのはせいぜい、その作品とそれを見た私との接点についてであり、でも、それは「その作品に対する」感想というには、私についての比重が大きすぎることになるのではないか・・・・というのも言い訳か。

困っていると、「なんでも、思ったことを言ってくれればいいから。」
と言われたりする。

確かに、何かを見れば何かを思う。何も思わずに何かをみることの方が難しいし不自然だろう。

毎日見ている空を見たってそのたび何か思うのだから、初めて見た「作品」にだってそれは当然なにかしら思うだろう。だけどそれって、どれくらいその「作品」と関係のあることなのだろうか?
空を見て私が今日思ったことは、空に対する批評だろか?
月を見てふと思い出したことは、今日の月に対する感想だろうか?

舞台を見て、小説を読んで、音楽を聞いて、そのとき思ったことや思い浮かんだことは、いつもその作品に対する感想なのだろうか?
全く関係なかったりすることはないのだろうか?

考えるとわからなくなるのだ。

誰かが創ったものを見るのは楽しい。
見て、いろいろ考えるのも楽しい。
楽しく何かを見ている時って、ひとはとても無防備になるのではないだろうか。

感想を求められると、だらしない恰好でだらしない姿勢でひとりでリラックスしてる部屋にふいに訪ねてこられたような気分になる。訪問者は言う。「どうぞ私のことは気にせず、気楽にいつもどおりにしていてくださいね。」
この日のために考え抜いた服装で、礼儀にかなった姿勢で、選び抜いた言葉であいさつをする人のことを「気にせずいつも通りリラックス」するにはかなりの才覚と修練が必要だ。私にはその才覚がない。それなりに準備して緊張して望む方がずっと身の置き所がある。時間かかるけど。

そんな無防備にしていったい何を考えているのかというと、きっと、自分のことだ。自分と、自分にとって大切な何かや自分にとって有害な何かについてだ。恥ずかしいから言いたくないけど、(これを言うのがいやだからこの日記がなかなか書けないのだ)他人の作品を見ながら、私は自分ことばかり考えてるのだ。きっと。

感想を求められると、それが露呈するような気がして、いたたまれなくなるのだ。しかも、自分のことしか考えていない私には、いうべき言葉がみつからない。それが相手を多かれ少なかれ気落ちさせ、がっかりさせることなのだということはわかる。だから、頭が真っ白になるのだ。



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05月11日(金)
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