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窓のそと(Diary by 久野那美)
by 久野那美
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■原作を
別の場所で、ちょっと面白い議論をしてるので、ここにも書いてみます。
宮沢賢治の童話を読む朗読会を聴きに行って。
そのあと一緒に見た人や出演者の人と、「テキスト(戯曲や物語など)を上演したり朗読したりすることについて」お話をしました。
筋がね入りの宮沢賢治ファンの方が多かったので、「賢治作品を朗読する(上演する)こと」に話が集中してそっちよりの議論になってはいますが、宮沢賢治でなくても、おおまかには同じかなと思います。(たぶん)
以下は私の意見です。
(具体的な議論の中での意見なのでかなり極端かもですが。)
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「テキストに書かれただけでは為し得なったことをする」ために上演する(読む)のでなければ、やる意味がない。「たしかに書いてあるのだけれど、読んだだけではわからないこと」を表現するために朗読するのだという意見には賛成できない。読者だけを意識してるのなら、書かれるべきことはすべて書いてある。読者ではなく観客を、聴き手を意識した時にはじめて必要になることを創るために上演するのであり、朗読するのだと思う。
だから、上演(朗読)するのに最も優れた方法なんか、原作にはない。
「この物語を演技・演出・朗読する最も優れた方法はなんだろう(作者や物語の中ある答えをみつけよう)」と考えて上演(朗読)するなんて、テキストを聖なる教典扱いして、それに追いつくために上演しようと思うなんて、
ほんとうにナンセンスだ。つまり、それはテキストをテキスト以下のものにわざわざ創りかえる行為だから。そんなことをしたいと思うなんて、「原作を無視している」としか思えない。
「これは誰にでも演じられる(朗読できる)物語で、いかようにもできるけれど、自分ならこういう風にしたい(読みたい)。なぜならば、自分が上演する(朗読する)意義はこれだからだ。」という姿勢で出演・演出・朗読し
すべきだと思っている。そうやってはじめて、テキストを超える上演(朗読)作品になる可能性が生まれると思っている。
※最初から「上演台本」として書かれているテキストの場合は、別の議論をする必要があるかなと思います。
11月21日(月)
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