ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6416,読書日記 神さまって、そもそも何? 〜2
* 神を信じる方に賭ける(パスカルの賭け)
学生時代、愛読書だった『パンセ』の<パスカルの賭け>に、嫌に納得した
ことを思いだした。都会暮らしに慣れず、孤独感にさい悩まされていた時に
手にした新約聖書に救われていた時があった。子供の頃、二年ほど、教戒師が
家に来て、家族と説教を聞き、賛美歌を歌っていた時期があったから、抵抗感
なく聖書の世界に入ることが出来た。 学生時代の後半、同級生に、その話を
すると、「何で?」と不思議そうな目で見つめられた。 教養課程に、
『キリスト教倫理』の科目があったが、他の学生はツマラナソウだったが、
一言一言が、心底に突き刺さるようであった。
・一日二時間の読書時間の確保と、
・心底に濁らせてはならない純真・純白たる領域の確保!
これが学生時代の一番の収穫である。
≪ ‘パスカルの賭け’とは、
「神を信じて、本当に神が存在すれば天国に行き、
もし存在しなければ天国も地獄もない。
神を信じないで、もし神が存在すれば地獄へ行き、存在しなければ
天国も地獄もない。ゆえに、 神の存否が分からない時は、神を信じた
ほうがよい。(パンセ)≫
パンセといえば、第一節
< 人間は一本の葦にすぎない。自然の中で一番弱いものだ。
だが、それは考える葦である>
があるが、その先の文章がよい。
< これを押しつぶすには、全宇宙は何も武装する必要はない。
ひと吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すに十分である。>
今さらだが、‘パスカルの賭け’ネット検索をすると…
≪・パスカルの賭けは、フランスの哲学者ブレーズ・パスカルが提案したもので、
理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても
失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す、という考え方である。
・パスカルは、神の本質は「限りなく不可知である」として、神の実在/非実在は
人間の理性では証明不能だという前提を出発点とした。理性がその問題に答え
られなくとも、人は憶測や盲信で「賭け」をすることになる。実際には我々は
既に(信仰の)選択を行って生活しており、パスカルの観点から言えばこの点に
関しての不可知論はあり得ない。我々は「理性」と「幸福」という2つのことだけ
を秤にかける。パスカルは、神の存在についての問題は理性では解けないため、
コイントスのような「損失と利益の等しいリスク」があると見なした。そういう
わけで我々は、神の存在を信じたときの損失と利益を考慮して、自らの幸福に
したがって判断しなければならない。パスカルは「得るときは全てを得、失う
ときは何も失わない」として神が存在する方に賭けるという判断が賢いと主張。
すなわち、神が存在するなら永遠の命が約束され、存在しない場合でも死に際
して信仰を持たない場合より悪くなることは何もない。
・パスカルの賭けで定義される可能性は、以下のような意思決定マトリックスを
使い不確かな状況での選択として考えることができる。なお、パスカルは地獄
については何も言っていないし、神が存在してそれを信じない場合に得るものに
ついて何も言っていない。彼の観点からは神を信じることで無限の利益が得られる
ー
▼ 中原中也の 『汚れちまった悲しみに』が、ふと思い立った!
「汚れちまった悲しみに・・・」
汚れちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
汚れちまった悲しみに
たとえば狐の皮衣
汚れちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる
汚れちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れちまった悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
汚れちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる
【中原中也】
〜
後記: 個人HP内検索に【パンセ】を入れると、2004、2005年に
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10月07日(日)
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