ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[393794hit]
■4438, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー8
ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
* ルート7 リラクゼーションと東洋的思想からのアプローチ(思想の道)
「いい湯だな」と「悟り」は同じこと。両者とも「リラックスの極致=悟り」ということ。
笑いは緊張とリラックス(弛緩)の間に生まれ出る。喜劇やお笑い番組の束の間に悟りがあるのか?
お笑い芸人が果たして悟りをひらいているのか? という疑問が出てくる。しかし「深いリラックス」が、悟りと笑いにある。
早朝のミニサイクリングで信濃川の土手を音楽を聴きながら、深呼吸をしている時の気持ちは悟りの心境である。
深くリラックスをしてないと、自分が壊れてしまう恐れもある。逆に悟りに近い心境は自ずからリラックスの状況を求める。
−その辺りを抜粋ー
≪ 先ほどの達人の境地や禅僧の姿はこれに通じるものがある。自分を磨くことによって至ることのできる境地。
これに対し、リラックスの境地は、「世界を貫く原理原則を知った」状態とは異なるように思えるかもしれない。
しかし、そうだろうか。リラックスの境地は、我欲や悩みやその根源である身体の不自由さから解放された境地だ。
心が無であること、あるいは、幻想であることを、体で理解した境地だ。
「ああ、世界での幸福なあり方とはこういうものか」と体で理解した境地だ。そう考えれば、リラックスの境地は、
「世界を貫く原理原則を知った」ことと等価ではないだろうか。「体で理解」する点が、禅宗の「不立文字」とも関係している。
先ほど述べたように、禅宗では、悟りの境地は言葉では言い表せないものだと考える。右で述べた、体で理解した境地とは、
まさにこのことだ。
頭で理解したのではない。体で理解したのだ。体で、世界を貫く原理原則がわかった、と実感したのだ。
よって、リラックスの境地は禅宗の悟りの境地と同じものだ、と体で理解しさえすれば、同じものなのだ。
ただ、古代仏教では、禅宗とは違って、悟りの境地を論理として理解しようと考える。これはどう捉えるべきなのだろうか。
僕はここにも矛盾はないと考える。矛盾か矛盾でないか、自己か他者か、実在か幻想か、論理か感性か、頭か体か、
という対立図式を超えるのが仏教哲学の論理だ。・・・・
〜(略)湯船につかって、「あ〜あ、きもちいい〜」と思う瞬間。これは大金持ちでも、貧乏人でも同じ。
育ちも実績も関係ない。欲も悩みもない。何も考えない。ただ、「あ〜あ、きもちいい〜」に集中している。
実は、あっけないことに、これが、「リラックスの極限」=「悟り」だ。 あらゆる欲を超越し、過去も未来も超越し、
静かで満ち足りていて、心の安らぎと平和を享受している。悟りや涅槃の定義にぴったり一致する。
そうはいっても、リラックスの境地と悟りが同じとは ーしかも、よりによって、風呂の「あ〜あ、きもちいい〜」と
悟りを同一視するとはー あまりに突飛で不謹慎な考えだ。そう思われる方も少なくないかもしれない。が、そんなことはない。
期せずして、あるチベット仏教のアメリカ人僧侶は、悟りとは深いリラックスだと述べていた。≫
▼ 起業を決意してから45年間。三つのブラックスワンで、この結末。オセロで、白石が全て黒に変わったようなもの。
しかし、人生にとってベストと数ヵ月後に気づいた。50歳の節目時に、「還暦までに、それまでの人生を圧縮して生きる」
と決意して、その通り実行してきた。しかし、まだ何かが足りなかった。そこで気づいたのが、悟りが全く足りなったこと!
・・・・・・・
4064, 思想とは
2012年05月11日(金)
* その人の思想とは一つの行為である ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より
≪ ――自分に実感がなければ、ひとを掴めるはずがない。
心の底からほとばしって、聞いているみんなの心を
ひたむきな感動で引っ張ってゆくのでなけりゃだめだ。
今日も明日も机にへばりついて、膠で接ぎ合わせたり、
他人の賞味したお余りでこった点をこしらえたり、
[5]続きを読む
05月11日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る