ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4187, 呪いの時代 ー5
     * 「ほんとうの私」と「仮象の私」       ー「呪いの時代」内田樹著
 「ほんとうの私」と「仮象の私」には大きな隔たりがある。哲学で人生を舞台と見立てて、生きる意味と役割を考える手立てがある。
観客から見られているのが仮象の私で、実際に演じている自分が「ほんとうの私」としての見方。その演じている私も俳優という役割を
演じているに過ぎない。『男はつらいよ』のフーテンの寅、それを演じている渥美清、そして本名・田所康雄の役割の重層がある。
政治家は、票の確保のための代表に相応しい人間を「仮象」として演じている典型である。政治家は、選挙民に政治を託された公人。
 そこでは「ほんとうの私」を表立ててはならない。最近の政治家は、その辺りが甘い。ー以下は最近の政治家について箇所であるー
≪ 政治家の言葉が軽いのは、彼らがどんどん「ほんとうの私」に人格の軸足を置くようになったからと僕は思っています。
 他人が見ている私とは違うところに「ほんとうの私」がいる。それこそが「真正の私」であり、世間の人間が見ているのは
仮象にすぎない、と。だから、「世間の人間が見ている私」の言動について、「ほんとうの私」は責任を取る必要を感じない。
例えば、政治家が不祥事を起こす、彼は決して不祥事そのものについては詫びません。「私はそんなに悪いことをしているとは思わない」
と言い募る。けれども、「党のみなさん、支援者の方々にはご迷惑をかけた」ので職を辞す、と。「党の同志や支援者のみなさん」とは
「ほんとうの私」でつながっている。だから、彼らには真率を示す。しかし、野党やメディアが叩いているのは「他人から見た私」という
仮象であるので、叩かれても痛くも痒くもないし、そのような仮象の言動について「ほんとうの私」が責任を取るいわれはない。
政治家たちはそういうふうに考えているようです。「自分探しの旅」というのはもともと中教審が言い出したことで、政治主導の
イデオロギーですけれど、政治家自身が自分で唱導してきたイデオロギーの虜囚となってしまった。「ほんとうの私」こそ私の本態であり、
みんなが見ているのは「仮象の私」であって、そんなものについてオレには責任を取る気はない、と。だから、政治家の言葉が軽くなった。
「言葉の重み」というのは、その言葉が流通していく過程でさまざまな解釈が施され、さまざまな意味が賦与され、不測の事態を
惹き起こすことを見越して、発語者がその全体の責任を取るということです。・・・≫
 ▼ 政治家は、自分を捨てて、政=まつりごとを遂行することを業とする。それならば、既に政治家を目指したら、
  「ほんとうの私」は、捨ててかからなければならない。「世間の人間が見ている私」に軸足を置いて、俳優のごとく
  自分を演じるのが本筋。だから、「ほんとうの私」ごと責任を取らなければならない。その点で、政治家が軽くなったという説には
  納得をする。しかし、人生そのものは真正の私が生きる人生とは別物。その辺りを間違うと、とんでもないことになる。
 「世間がみている私」に責任などない。流動の少ない地方で、その辺を勘違いすると、人生そのものが狂ってしまう。
  自覚の無い狂人に、自覚ある狂人、その差は大きい筈だが・・・ 「ほんとうの私」も、実は「仮象の私」でしかないのだが。
 ・・・・・・
3822, 言語はゲームか?
2011年09月12日(月)
  毎日、一日一文を10年間も書き続けていると、書き上げること自体をゲームにやらないと続かない。
まずテーマさがし、次に文章を構成するキーワードと情報源さがし、そして起承転結の前段階の小文を書き、それを組み合わせ、
その後、何度か読み直しながら校正する。そこに自ずからルール化した習慣が出来てくる。それを一日も休まないで実行する。
手抜きをすると毎年の同月同日に、それを読むことになる。現に毎日読んでいる。そのプレッシャーが、嫌が上にもエネルギーになる。
「書くことは、ただ印象に残った日常や、本を写し取るのでなく、行為し、働きかけること」というウィトゲンシュタインの言説は

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09月12日(水)
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