ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4043, 一時停止 ー3
「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
* 出会い ーフェルメール 1967年
≪ 私がほんとうにフェルメールを見たのは、その本物を見たときである。本物を見たから、フェルメールが見たくなったのだし、
旅に出ずに複製しか見る機会がなかったら、もしかすると一生私はフェルメールに気づかなかったかもしれない。 現代の進歩した
印刷技術は、複製と本物との差をだんだんに小さなものにしてゆきつつある。複製で見ても本物で見てもそんなに変わりはないという
絵画もあるだろう。複製を見ることが、本物を見ることにつながる絵画もあるだろう。だがフェルメールはちがう。複製と本物との間に、
越えがたい断絶がある。 あたかもヴィニールの花と、野の自然の花とのように。 あるいはこう言いかえてもいいかもしれない。
本物を見ても、複製を見たのと同じ感動しかなければ、私はその絵にほんとうに感動してはいないのだと。そういう形で感動した絵は
実は私にはまことに少ないのだが。 はじめて見たフェルメールに感じた気持ちを、そのときの状態のままにことばにすりとしたら、
それは「ああきれいだなあ、ほんとになんてきれいなんだろう」ということにしかならない。 美は人を沈黙させるという。その通りである。
その沈黙の中に、無数のことばにならぬことばがひしめいているのではないかと言う人もあるが、少なくとも私の場合、そう言えば嘘になる。
沈黙はもっと深く、ことばにならぬことばなどといった不純なものはない。しんとした純正の沈黙なのである。
ことばはずっとあとになってから、やっと重い腰をあげる。その時でもことばは謙虚だ、ただいちばんふさわしいオマージュを捧げ、
絵の美しさにほんの少しでもあやかりたいと思うだけなのだ。≫
▼ 本物の絵画や美術品を数多く見てきた。TPOもあるが、その前で立ちすくし、身動きが出来なくなるがある。
ダビンチのモナリザ、サンピエトロのミケランジェロ作ピエタの像、ゴッホのヒマワリなどを目の当たりにした時の感動。
対象が浮き出てくるようなエネルギーが満ち溢れていた。 特にゴッホのヒマワリは、周囲に誰もいなかったこともあり、
10分間ほど、釘つけになってしまった。出会いである。 そういえば、近じかフェルメール展が日本で開催される。
・・・・・・・
3677, 自己を見つめる −4
2011年04月20日(水)
「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
節目どきは、境遇の節目でもある。特に乗り越えることが不可能と思える壁に直面した状況を「限界状況」と、ヤスパーが
指摘している。 その限界状況に「人生の不条理」に突き当たる。その時に、それまで隠されていた真実が現れ出てくる。
節目を打つとは、人生の不条理を受け入れ目を背けないことである。正中心一点無になり、変化を受け入れること。
ー 第三章 境遇 ーから、抜粋
【 現在、変えることのできない定めを帯びた宿命的な境遇のなかへと投げ出され、置き入れられて、人生の途上にある。
その私たちの無に貫通された現世における存在のうちには、宿命的な境遇のもつ変えることのできない定めが刻印されている。
ヤスパースが指摘するように、私たちの生存のうちには、どうしようもない「限界状況」が巣くっていると言える。
限界状況とは、それに突き当たっては、私たちは挫折し、崩れ去る崩れ去るような、乗り越ることの不可能な壁に直面した状況を言う。
そうした限界状況に面座して、私たちは途方に暮れた困惑のなかで、解決しようのない自己の人生の不条理の根源的事実に突き当たる。
しかし、そのときにこそ、私たち自身の、ほんとうの「実存」が目覚めてくる。
実存とは、私たち各自の生存の、赤裸々な真実、その拒否できない現実のあり方のことである。
自己の実存を自覚し、それにもとついて生きるよりほかに、この世を生きる生の根拠を、私たちはもたない。】
【 ハイデッガーが述べた通り、私たちは、それぞれ何らかの世の中に投げ出されと「被投的」存在である。
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04月20日(金)
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