ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3683, 自己を見つめる −7
          「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  昔ほど、生甲斐という言葉を言わなくなったが、そのかわり、「好きなことを見出し楽しめ」というようになった。
 生き甲斐は、それなりの覚悟と追求のエネルギーを要するが、「好きなことはを楽しむ」には、それほどの重さはない。
 生き甲斐について、著者は以下のように納得できる説明をしている。
  * 生き甲斐の探究
【 私たちは、この世の中を生きるとき、なんらかの形で、生き甲斐を求めている。生き甲斐のない人生を好んで求める人は、
 考えることができない。 生きるということは、みずからが、そこに意味を見出し、なんらかの有意義性の成り立つことを
 信じることのできる道程を発見して、そこに自分の人生の基盤を据えて、自己の時間的な生成過程と、振幅を含んだ多様な遍歴の道を、
 辛苦や労苦を越えて、歩み進もうとする覚悟にもとづいて初めて成立する。 それを可能ならしめるものが、生き甲斐にほかならない。
 むろん、その生き甲斐という問題は、さまざまな局面を含んでいて、けっして単純ではない。 けれども、生きる意味を信じ、
 自分の人生を肯定できる道程を発見し、そこで自分の人生の充実を図って生きる、という構造を含まないような人生設計や
 人間活動というものほ、人間の生き方として、考えることができない。意味や有意義性は、ディルタイがすでに指摘したように、
 私たちの生を構成する最も基本的なカテゴリーなのである。 そうした生き甲斐とは、それを最も強い形で言い表せば、
 自分の死に場所を発見することと同じだと言えるであろう。 その道を突き進んで、その果てに自分はもう死んでもよいと
 言えるような生き方とその内実を発見したときに、その人は自分で自分の人生の充実を図って生きる、こういう構造を
 含まないような人生設計や的活動というものは、泰然自若、自己であることに安らうはずである。 たしかに、
「人生、いたるところに青山あり」、である。しかし、ほんとうに死んでもよいと思える場所と生き方を、最終的に見出すことは、
 けっして容易ではない。何人も、迷いを免れがたいからである。けれども、人間は、最後には、自分を捨て、
 そこに自分を埋めてもよいと覚悟できる人生の住処を求めている。】
  〜〜
  「生き甲斐とは、自分の死に場所を発見することと同じ。その道を突き進んで、自分はもう死んでもよいといえる生き方と、
  その内実を発見したときに、泰然自若、自己であることに安らう」は、納得する。 本当に自分の好きなことを見つけ、
  全霊を傾けて自分のエネルギーを叩きつける時に、生甲斐が生じる。 それがない人生は、空虚な喪失感が付きまとう。
  しかし生甲斐は、そう簡単に得ることはできない。極限の中にこそ、生じてくる。生甲斐を感じているときが、自分の心の芯に
  いる時であり、自分である時である。家族の為に我を忘れて必死に働いている時にこそ、振り返ってみた時に、生き甲斐を
  見出すのである。そこには、意味も意義も充分にある。 全身全霊をかけて対象に取り組んでいる中に生き甲斐が生まれてくる。
・・・・・・・・
3318, 悲しみ、苦しみは人生の花
 2010年04月26日(月)
 「悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花咲かせ、楽しむことの発見、
  これはあるいは近代の発見と称してもよろしいかも知れぬ。」これ坂口安吾の言葉である。
 それなら喜び、楽しみは果実というところか? 60数年の人生を振り返り肯定的に眺めれば、そうかもしれない。 
 私の実感は、悲しみ、苦しみ人生のレッスン=学びである。 近代の発見とは、目標の発見と解釈できる。 
 また花咲かせるとは、目的、目標の達成である。 目的達成のプロセスこそ人生の花というのも肯ける。「花も嵐も踏み越えて」
 という歌の文句があるが、人生とは挫折を乗り越えてこそ、その先の喜びも大きくなるもの。「悲しみ、苦しみは人生の花!」は、
 なかなかいえない言葉だからこそ、心に響くのである。 自分の子供に先だたれた親に、この言葉が当てはまるのだろうか。

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04月26日(火)
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