ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3432, 再び、死について考えてみる ー1
数日前に近所の家内の友人が急逝した。 最近、「60歳過ぎれば今日明日亡くなっても不思議でない。
今年しか人生が残されていないと一日一生の思いで生きなければ。だからチャンスがあれば、
何ごとも可能な限りやらなくては。」と話したばかり。 哲学でも、死について多く考えられている。
以下は、「現代哲学の冒険シリーズ」の中の【「死」 細川亮一「恐れと驚きー死と生の問いー」】を参考にして書き上げた。
≪ そこで「死の人称性」は、死を語る上で分かりやすい説明になる。
・まず三人称の死は、「彼らが死んだという過去形」か、「彼は死ぬだろうという未来形」で語られる。
・一人称の死(私の死)は、過去でも現在ではない。将来自分は死ぬだろう、死ぬ運命にある未来形である。
・二人称の死は、「あなたが死んだ」と過去形ではいえない。「あなたは死ぬかもしれない」とはいいえるが、あまり馴染まない。
弔辞でいう「あなたは死んだ」というのは過ぎ去った過去のことでなく、葬儀の現在のことである。したがって、あくまで現在の範疇。
人の死の人称性の、一人称、二人称、三人称が、 過去・現在・未来の時間性を有しているのである。≫
ー以上だが、今回のような亡くなる前日に電話をしたが不在といわれた友人が、翌日、そ連れ添いから
「実は死に病で最近になり入院していたが、朝方亡くなった」と電話があり、家内がショックを受けた、という死に話は、
間接にしか知らない二人称の死であり、もっとも死について考えさせるケースである。
そこから逆に、死から生への逆照射をすると、【生きるとは何か】のヒントが、みえてくる。
【私は生まれた】と、逆に私の誕生を過去形でしかいい得ない。未来の死と、過去の誕生、「現在、生きている私こそ、
この世の存在」ということになる。 だから、現在、四苦八苦としても、それを生きる証として受け止めるのが自然である。
私の死と誕生の、死の時点は、私にとって特異点。 この2つの特異点の間が「私が生きている」現在形として語ってよい。
自分の過去も、現在、そして未来を思い浮かべている現在も含め、全てが現在と言いうるのではないか。
そこにベルクソンの時間論の意味が、ある。時間など人間の主観?の捉え方でしかないと。
で、二人称の死から考えられるのが、自分の死と生のイメージの絵の書き加え、修正作用となる。
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3057,逆説思考
2009年08月18日(火)
「逆説思考」というのがある。哲学は、常識をまずは疑ってかかる。
「逆ではないかい?」と、まずは逆説をたてることから始める。私が学生時代に学んだことは、これだった。
まずは、否定してみる、そして、次に立ち戻って肯定してみる。その間に、第三の案が出るのを待つ。それが考える第一歩となった。
その繰り返しの中から自己の客観化すなわち「自己距離化」が生じる。 もし自分が大きなミスをして追い詰められた時に、
「この大きな問題を解決する能力を神によって与えられた試練である。問題の中心に向けて集中していると自ずから
解決の糸口が現われる。」と考える。 これも逆説思考でプラスへの切り替えである。
看取り学のキュープラ・ロスも人生は問題の連続と看破。その解決のプロセスを学びと捉え、最終のレッスンが死であるとした。
これもまた逆説思考である。オーストリアの心理学者のフランクルはナチスの死の収容所の生死の淵で、数年後の自分の姿を
思い浮かべ辛さを乗り越えることが出来た。 「その時に私は、あるトリックにすがりました。1945年のそんな中で
想像してみたのです。 私は、講演用の見台の前に立って、講演をしているんだ。たとえば、『一心理学者の強制収容所体験』
というような題で講演しているだ、大きく、綺麗で、明るい照明の、なによりも暖房の効いたホールで」というように。
これも逆説思考である。金沢で落ち込んでいた時に、夜半に同じような気持ちの切り替えの経験があった。
いや、ずっとこの連続が人生であった。 『自分は事業を立ち上げる修行にきているのである。
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08月18日(水)
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