ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3268, 哲学者は神について、どのように語ったか ー4
  * キルケゴールの「宗教的実存」
 キルケゴールは、「個人の生は3つの段階を経て深化する」と主張した。
1、美的実存:  美しいものを求めて、そのときそのときの享楽を求める生き方である。 ドンファン的生き方。
2、倫理的実存: よいことをし、社会的の規律を守り、習慣などに従い、全てに道徳的な生き方。
3、宗教的実存: 神である絶対者との関係の中で生きることにより、真の人生を手に入れることができる生き方。
 この宗教的な生き方も、二つに分けた。「宗教性A]と「宗教性B]である。
 「宗教性A」は、自力救済を試み、自分の主体や理性によって自分を支配しようとする。
    しかし、それはキエルケゴールによると罪になる。 支配するのは神である。それに気づいた時に「宗教性B]になる。
    ここになるものは、もはや理性でも倫理でもなく、絶対的な神の服従であり、ここに至って絶望は癒され、
    無限で絶対的な存在でありながら、この世に生きて死んだイエス・キリスト、神でありながら人でもある存在に
    依り頼むことによって、人間の力では決して果たしえなかった絶望からの脱却が可能になる。
  この宗教的実存を説いた彼は、教会からは嫌われていた。キルケゴールは、「何となく日曜日に教会に・・・」とか、
 「デンマークはキリスト教国だから・・」とかなどの習慣的な信仰は偽ものとする批難の対象にした。
 殆んどの人が、その対象になるから彼を嫌い、「全デンマークの牧師の敵」とよばれていた。
・彼は「私にとっての真理」を追い求めた。人類にとって真理を求めても何もならない。個としての人間が、
 生きていく上の支えとなり得る真理こそが必要と考えた。
・「たとえ全世界が崩れ落ちようとも神的なものに絡みついてはなれないでいることを望んだ」が、しかし、
 そうした永遠とのつながりを欠いた人間の状態は、無に脅かされており、人間に不安を呼び起こす。
 その不安の奥に、神との関係がある。 有限性と罪責の中にある人間を救う神。その神と引き離された存在
 であるという事実は、人を絶望させる。この絶望を、彼は「死に至る病」といった。
 それは「宗教的B]でしか癒すことができないといったのである。厳しい宗教的生活でしか果たして癒されないだろうか。
 ・・・・・・・・
2893, 年寄りの持病自慢は、老人の猥談だと!
2009年03月07日(土)
50歳半ば頃から同級会では、年金か成人病の自慢のしあいか、誰かの死の話が中心になる。
青春時代に自分の体つきや身なりを気にしたり、性体験を陰で話したり、猥談を話したくなる時期があるが、
それと同じく、自分の「体調」や「病気体験」について語りはじめる老人の「健康談議」を「老人の猥談」というらしい。 
五十歳代半ばの下半身の衰えは男の共通の話題。 その次は癌体験か糖尿病か心臓病などの成人病の披露のしあい。
こういう場しか、深刻な悩みを聞いてくれるところがないこともある。 それを老人の猥談とは上手くいったものだ。
要するに下半身のことや持病の露出は、人様の前では極力避けるべきである。
猥談に関しては家では御法度であった。マナーとして当然のことだが、それが平気でいう人がいて驚くことがある。
母からは、「匂いのするような話をしないこと」が刷り込まれていた。それと同じことが、「自分の持病を公然と話すことが、
老人の猥談談義」というと、なるほど肯ける。言うなら、抽象的に、なるべくは人前では言わないことである。
歳を重ねるほど二重三重に注意しなくてはなるまい。60歳までは死は後ろから迫ってくるが、
70歳になると前からくる感じになるという。だから互いに傷口を披露したくなるのだろう。
・・・・・・・・・
2529, 山田風太郎 のアフォリズム
 2008年03月07日(金)
彼の本が好きで、何冊か図書館で借りて読んできた。暗い中に何ともいえない温みがあり、2年に一度は彼の本を読んでいる。
また亡くなる前に朝日新聞に『あと千回の晩飯』が連載したことがあった。なかなか文に鬼気迫る内容だったことを憶えている。

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03月07日(日)
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