ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2866, 大相撲が神事?
大相撲が日本人力士の大麻吸引で、ますます面白くなってきているが、
「大相撲って実のところ何だ」というと、いかに曖昧である。
「国技」? 法的には何もない。ただ税金は全面的に免除されていて、理事以上の利権のネタでしかない。
スポーツ、武道、格闘技それぞれの一面を持っているが、何か違うのである。
歌舞伎のようにチョンマゲを頭の上に乗せて、神主姿の行事が仕切り、その周りを審番が勝負を見守る。
政の神事の時の余興で力自慢をしたのが由来という説と、朝鮮から入ってきたモンゴル系民族が
騎馬で日本を制圧、その時にモンゴル相撲も入ったとも考えられる。その面では天皇と深い因縁がある。
神前の儀式での力自慢が徐々に見世物としての芸能になり、大相撲になったのである。
力自慢には、それぞれ大名などの贔屓がついたのがタニマチとして現在も残っている。
相撲部屋とは、その力自慢を囲い込んでいたところ。元々、そう上等のものではない。
その歌舞伎+格闘技+興行の混ざりこんだ男芸者衆の芸事?に、近代を持ち込んで批判すること自体がおかしい。
国技、神事とか、真面目な顔をして説いているのは、大相撲パラサイトの飯の種。
八百長など、当たり前のこと! これは芸事。 まともに勝負をするから最近、怪我人が多くなったのである。
フェアだというが、それは欧米の考えでしかない。
プロレスの観客は、あれは芝居ということを知ったうえ、悪役をどう倒すかの物語を楽しんでいる。
相撲も真剣勝負の妙味もあるが、力士の15日間の勝敗の星勘定と昇進、陥落の物語を楽しんでいる。
初場所では朝青龍という名ヒール役の復活の物語を喜んだのである。
神事、国技というなら、外人を入れるべきでない。
面白くするために必要なら、国技などという名をすてるべし。
税金を払うべし。そして、横綱審議会とかいうのを即刻止めるべし。
恥ずかしげもなく、よく出てくる姿は微笑ましくもあるが。
息抜きの話題には丁度良いが・・・レベル的には週刊現代のネタというところだ。
・・・・・・・・・
2008年02月08日(金)
2501, 無くてはならぬもの −8
おはよ〜(>ω<。)!!
人生を振り返ると全く、恥ずかしきことのみ多かりき!である。
自分の輪郭がハッキリして、その卑小性に独り嫌悪感に陥る瞬間が多くなる。
これが人生の秋口の心の風景なのだろう。早くいえば基礎教養は足りなかったのである。
俄然と読み始めたのが20歳位だったのが、遅かったためだろうか。
40年以上は、一日2〜4時間は読み続けてきた。しかし思春期の読書量が足りなかった。
それも、家庭文化のレベルということもあるが。しかし子供のころから葬式などで法話を聞き続けてきたし、
書画骨董の一流品を見続けてきたし、それでも両親や兄姉から色々な教えを受けてきたし、生き様を見てきて、
このレベルである。 独り溜息をつく日々である。 後は、どう自分と折り合いをつけるしかない!
ただおもしろかったが・・・・・この一点が救いである!
若き時の自分の声のように当時の沁みた言葉が、本を通して語りかけてくる。
−−
P−37
アンドレ・ジイドの『狭き門』という小説は諸君のなかにも読んだ人が多いだろうと思うが、
あの狭き門という題は聖書の有名な言葉からとったものである。イエスの言葉である。
「狭き門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。
そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。
そして、それを見いだす者が少ない」(マタイによる福音書七の13−14)
この「命にいたる門」ということも、ほんとうの自己を見いだす門という意味である。
私たちはすぐにあの夏目漱石の『門』という小説を思い起こすであろう。
あの漱石の『門』の主人公は、友人の妻を奪って自分の妻にするのであるが、
そのエゴイズムのなかで苦しんだあげく、鎌倉の円覚寺に行って坐禅をして悟りを
ひらこうとするのだが、どうしても救われないでまた門をあとにして舞いもどってしまう。
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02月08日(日)
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