ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[396154hit]

■2657, いちゃつき −2
前回に鷲田が宗教学者・植島啓司から聞いた話を書いた。
「‘解脱’は自分を遠ざけて、世界の中に自分を溶け込ませる技術で、‘救済’は逆に自分を開いて、
 他人を迎え入れて他人でいっぱいにするというかたちで自分を溶かしてしまう。 だから方法が違うんですよ。
 自分が相手の中に吸収されるか、逆に他が自分の中に浸透するか。どっちにしても、自分と世界の距離をなくして、
 自分を触っているか。相手を触っているかわからないような『いちゃいちゃ状態』を宗教だ」
 という内容だが。いちゃいちゃする中で互いに自分を溶け込ませて、距離を無くす至福の状態は男女の仲だけでなく、
 宗教の中にこそ、その原型があるという。
 
そこで思い出したのが、一月前に図書館で借りたDVDの「A2」という映画である。
オウムの内部から、住民との対立を両者の目線で撮ったドキュメント映画である。
<後でわかったことだが、「A]の続卷である。それを探したが、図書館にはなかった。>
住民の反対運動、右翼、警察、マスコミ・・地上波のテレビから映し出される視点とは全く違った内容。
社会的にオウムは凶悪犯罪を犯した団体だけに、一方的なイメージが先行してしまっているのも事実である。
これを観ていてオウムの内側から撮影された映像も見る価値もあると思えた。
 それより、何ともいえない教団内の共同意識の甘酸っぱい空気に驚いた。
あの空気から下界に出て社会生活をしろというほうが無理、それが宗教の解脱の世界の恐ろしさである。
それを表層だけをみて、一方的に純朴な信者を攻めるのも気の毒にさえ思える内容だった。
 ーその概要はー
1999年10月、群馬県藤岡市。倒産した印刷工場とその社長のかつての自宅に、多数のオウム信者が移住した。
工場の前には群馬県警が常駐し、その外側には地元住民たちによる監視小屋ができる。
やがてここでも、他の地域と同じように地元住民の反対活動によって信者たちは退去していくことになる。
地元住民のボランティアで組織される監視団は、意外にも久しく失ってきた住民同士の交流の場として機能していた。
また、信者との濃密な時間の共有はオウムに対する嫌悪とは別に、信者個人に対する人間的な心のつながりを芽生えさせていった。
 ー 以上だが、
  観ているうちに、信者同士の‘解脱’と‘救済’への修行で、何とも言えない連帯感がみてとれた。
  彼らの距離感が消えた不思議な感覚が、『いちゃつき』と同じ状態である。
  そして反対住民とも、何時の間にか奇妙な連帯感が生まれていくのを映像がしっかりと撮っていた。
  集団殺人は許されるものではない。 このドキュメント映画で、修行とおして「自分と世界の距離感、そして自分と自分の距離感」
  が無くなっている状態(法悦)=いちゃつき、からくる解脱と救済の世界を、監督は表現したかったようだ。
  オウムとは宇宙からの振動という意味もあるが、
  それに己を同調できるように修行するのが、彼らの目的のようだ。

・・・・・・・・・
2007年07月14日(土)
2293, 女ってバカなんじゃないか?
                  才ノヽ∋―_φ(≧ω≦*)♪

    昨日、「男ってバカなんじゃないか?」というテーマで書いた。
    しかし逆に「女ってバカなんじゃないか?」という論も成り立つ。
    中村うさぎの「霊長類オンナ科図鑑」には「バカ女」という切り口で、
    多くの女類が小気味よく分類されて掲載されている。
    女も男も、逆の立場から互いを見ればバカに見えて当然である。

「男は女を、『可愛いかどうか』という優先順位を変えることができない。
それってバカじゃないかい?」という見方は、成る程正しい。
しかし大部分の女たちは一生の間、他人様に可愛い、奇麗と思われたいため、エステなどで苦労するのだろう。
それでも無理と思えば、ブランド物でフォローしようと涙ぐましい努力をする。
多くの趣味を持って教養を積んで、内面の美しさが滲み出てこそ真の美しさになるんじゃないか。


[5]続きを読む

07月14日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る