ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[396903hit]

■2192, 人生とナメクジの線
              オッ(*^○^*)ハ〜ヨウ!

   「キャリア」の語源は、ナメクジが這った後に残る線という。
    思わず噴出してしまったが、人生もナメクジの這った跡の線と思えば、
    何も深刻ぶることはない。
    
    這っていく前には線は見えないが、後ろにはまるで道のように跡が残り、
    その跡が進むべき方向を示しているようでもある。
    我われが、明日を考える時に、やはりナメクジの跡の線と同じように
    歩んできた自分だけの線を振り返る必要がある。

ナメクジの優劣や跡の線など、それが如何したとみれば、悩みの殆どは消える。
そういう喩えをみると、さらに展開をしたくなる。
そこで思いつくのが、家付きのナメクジ?、そうカタツムリである。
家が無いカタツムリをナメクジとみれば、我われの持ち家など持つことはない。
これでは話が面白くないので、
「塩という世間を這いまわり自分の身体を溶かしながら生きるのが人生」
と考えると尤もらしい言葉になる。

 ひろ さちや著のー「狂い」のすすめーの中にあった一節を思い出した。
 *そこを抜粋すると*
「カタツムリが旅に出て、ナメクジになって帰ってくる」
私たちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。
そういう殻を背負ったカタツムリが旅をするのは、そうした殻を捨てるためです。
殻を捨ててナメクジになって帰ってくる。そうした気持ちの旅こそ、最高の旅である。
たとえば、インドの貧困だって、貧困を悪いものだとみるカタツムリでなく、
貧困もよいものじゃないかというナメクジの目でみることができれば、
素晴らしい旅になるはずです。
 インドの子供の裸足を見て「かわいそうに・・」と思うかもしれませんが、
「裸足のどこが悪いんだ、上等の靴を履かされて、重い鞄を持って塾通いと、
裸足でのびのびと遊んでいるインドの子供と、どちらが幸福なんだ・・・?」とね。
    −−
    土手を歩いていると、よくカタツムリが道を横断している。
    しっかりと、その跡がついているのだが、彼らとて大変である。
    雀とカラスの丁度良い餌になったり歩行者に踏むつぶされ、
    線が横断途中で途切れているのを見かける。

 お悩みの諸君!
悩んでいる自分をナメクジと鳥瞰した喩えで笑えるなら、
もう半分は悩みは解決しています。
                  (⌒▽⌒)/"”さいなら!
・・・・・・・・・
2006年04月04日(火)
1827, 日本一短い手紙「私へ」  才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
                 −読書日記 
                 
「私へ」の手紙}といえば哲学的にいえば、
{即自から対自への手紙}ということになる。
だから万人に共通する言葉であり、一言一言が響いてくる!

あの歳の、あの場所で、あのケースで、呟いていた自問自答の言葉がある。
これほど奇麗事の言葉ではなかった。
ふて寝をしながら、涙を溢しながら、時間の過ぎるのを待つしかなかった。
こんな言葉が心の奥から聞こえてきたら、あれだけ傷はつかなかっただろう。

    この本の中で「私にしかできないことがある。きっとある。今は分からない。」
    という言葉がある。 
    この言葉には、希望と明るさがある。
    絶望の海に溺れてしまった息苦しさの上の言葉には聞こえない。
    「私へ」という自分が、そこにある! それだけで、明るさがある!
    それでよいが。私の自分への言葉を、いま思いついたまま書いてみる。
 −−
 まあ、いいじゃないか!
 それで、いいじゃないか!
 これしか、なかったじゃないか!
 それも、これも、 どうでも、いいじゃないか!
 
 ほんとうに、これでよかったのか?
 ほんとうに、あれでよかったというのか?
 
 まあ、いいじゃないか!
 これで!
 他に、しかたなかったじゃないか!
 ー

[5]続きを読む

04月04日(水)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る