ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2134, 時間についての一考察 −1

        b(^o^)dおっ
               W(^O^)Wはー♪

    最近ますます哲学づいている。
    今日は「時間」について考えてみる。
    その中で「いま、ここ」−現在ーの意味が深い。
    考えてみても解ったような解らないような難しい問題である。
   「いま、ここ」という永遠への控えの間?には非常に深遠な光と陰を感じる。

感動した瞬間、感激した瞬間、そして心の奥底から感謝した瞬間、
怒り心頭に達した瞬間、人を殺してやりたい位に憎んだ瞬間、そのどれも
自分を構成している骨組みである。その時々のことは、ほぼリアルに記憶に残っている。
その瞬間・瞬間は、過去・未来ではなく
「その時点での今・現在」に経験したことである。

    我々が経験することができるのは、この今・現在しかない。
    その時点の一秒前でも後でも絶対にありえないこと。
    その「今・現在」を現に考えている間にボロボロと過去に過ぎ去っていく。
    しかし未来はあるのかといえば、「それはあるだろう」という想像でしかない。
    砂時計の落ちていく細い部分を「今・現在」という例えがあるが、
    それはあくまでも砂時計でしかない。

 時間に関しては、「哲学はこんなふうに」(スポンヴィル)の中の
   『第10章 時間』で次のように述べている。
 ==
・・・抵抗も創造も行動も、現在においてしかー現在のほかには何もないのだからー
なされえず、現在の後にはまた別の現在が続くだけである。
ストア哲学者が言うように、いまに生きることは夢想でも理想でもユートピアでもない。
これこそが、生きるということのきわめて簡単であると同時に、
はなはだ厄介な真理なのだ。永遠はどうなるのか?アウグスティヌスが考えたように、
永遠とは「永遠の今日」のことであるなら、
明日のために永遠を待つのは無意味になるだろう。
これも、アウグスティヌスの言葉だが、
永遠とは「永遠の現在」のことであるなら、それは現在そのものであるだろう。
なにしろ実際、つねに現在であり、つねに顕在的であり、常に活動していることこそが、
時間の真理なのだから。

    スピノザは「エチカ」の中でこう述べていた。
   「我々は自分たちは永遠であると感じ、体験している」。
    これは、我々が死なないという意味でも、
    我々が時間の中にいないという意味でもない。
    これが言わんとしていることは、死は我々から何一つ奪い去るものではなく
   (死んだ我々から奪い取るのは、存在していない未来だけなのだから)、
    時間も我々から何一つ奪い去るものではなく(現在がすべてなのだから)、
    最後に永遠を希望するのはばかげているー我々はすでにそこにいるのだからー
    ということである。
    ウィゲンシュタインが彼なりの言い方でこう言っている。
   「もし永遠ということで、終わりなき持続でなく無時間を考えるなら、
    現在を生きるもの永遠の生を持っていることになるだろう」。
    そうであるならば、我々は全員いつでも永遠の生をもっており、
    すでに救われているのだ。・・・
   ==

少し難しそうな話だが、
常に現在しかないし、現在考えている過去も、未来も、
それを現在考えているという意味で現在に含まれる。
永遠とは「永遠の現在」のことで、
その永遠は常にその時点の現在の中にこそある、
ということ。

この辺りが時間を考える意味で一番面白いところである。
いま・ここを、さらに次回に抜粋をしながら考えてみる。
               b(^o^)ノ バイ!

・・・・・・・・
 2006年02月05日(日)
1769, 閑話小題
ー エ!まさかー

先月の末の話になるが、
長岡のある料理屋が閉鎖をしたと朝日新聞の新潟版に
別枠で大きく取り扱われていた。
店主が店の2Fで心不全で亡くなっていたのが翌日になって発見されたとか。

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