ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2018, 「私」のための現代思想  −10

             (+>∀<+)ノ 
                 おぁはは〜ようさん!
             
             
「『孤独』とともに『自由』が発生する」の極みは一人旅であろう。
そういえば自由は孤独の極みにあった。
過去を振り返ってみて、孤独の極みのときに一人旅に出ていた。

そして結婚と同時に自由は狭まり、孤独(感)も激減した。
互いに首輪をつけて紐を握られ、握ってしまったからだ。
「自由になりたい」というが、自由ほど厳しいものはない。
自由にはまず「個の確立」が要求されるからだ。

    <他者>了解不可能性というが、
    これは同時に<自己>了解不可能性になる。
   「誰も自分を理解してくれない」と、悩んでいるとしたら、
    それは悩んでいること自体が、無知からきている。
    もし誰かに「理解してもらっている」と思ったら、
    一時的な妄想を抱いているだけのこと。

いい歳をした男どもが、群れているのをみると気の毒になる。
程度と比較の問題で、誰もが群れなければ生きてはいけないことも事実・・
それも人生だが!孤独の人ほど、それが人間の自然の姿である。
孤独とは、他者と一線を画すこと、「自らの分」を他者と画すことである。
和して同ぜずの精神である。
和して同じたとき自由が狭まる。

 −−−

第四章 「私」にとって「他者」とは何か
                    −A

ー孤独と自由ー

「存在する」が「存在者」という「かたち」をとることによって、何が発生するか、
レヴィナスは、まず「孤独」が発生すると言います。
「私」は<他者>の「声」の存在を通して「境界」の存在を察知するのみです。
その境界の中で芯としての《私》に気づきます。
自分の外部が存在し、そこに<他者>が存在するのですが、
それは<他者の了解不可能性」のよって推測されているに過ぎない。
このとき《私》は、入り口も窓も無い「閉ざされた部屋」の中にいることを知ります。
これがレヴィナスのいう「孤独」です。

    その部屋の中で、《私》はいろいろな概念をつくります。
    なに不自由なく暮らすことができます。しかし、親も子供も、友人も恋人も、
    そこに「存在しているように」見えるのですが、
    それは単なる「映像」でしかありません。
    彼らは全て<他者>であり、それは恐らく壁の向こうに側にあるだろう
    としか思えません。

境界が発生することによって、「孤独」とともに「自由」が発生します。
「存在する」ということを「液体である」という状態にたとえるなら、
そこには「自由」は存在しません。なぜなら、それは「全にして一」の存在であり、
動きは取れない状態。どのような場合に「自由」が存在するのでしょうか。
それは境界によって他と仕切られた状態になった時です。

それは「孤独」の別名でもあります。
その時《私》は、居場所を決めることができるのです。
つまり、自由とは「個別である」を前提としているということです。
このイメージは、「存在」という海の中で、結晶化した「存在者」が、
孤独に浮かんでいるというようなものです。

    境界を「外側から」規定するのが<他者>であり、
    「内側から」規定するのが「超越確実言明」ということになる。
    この境界の範囲が「自我の範囲」であり、それを内側から支える行動
    (言語行為)によって維持されています。

ー《私》による「境界」の維持ー

境界は《私》によって維持される必要があります。
《私》は「正しい居場所」を求めてこの世界を移動しますが、そのとき境界は、
積極的に守られる必要があるということです。
それを達成するのが、ウィゲンシュタインの「超越確実性言明」です。
境界を「外側から」規定するのが<他者>であり、
「内側から」規定するのが「超越確実性言明」になります。



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10月12日(木)
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