ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2010, 「私」のための現代思想 −7
おはよ〜!(*^ワ^*)i
(~O~)ふぁ・・ ねむ・・さむ
ここのー「私」とは何かーという文は非常に難解であるが、一番の触りでもある。
「独我論」-唯我独尊の独りよがりの論法ーで生きている人は何処の世界にもいる。
いや究極的には全ての人にいえるだろうが・・
(<特に私は強い!>・・と、思ったほうがよい)
しかし、それ(独我論)では、長い時間の中で自然と淘汰されていく。
言葉は「言語という制度」に従わなければならないが、
その「言語という制度」に従って使用することが思考である。
そして思考する主体が「私」である。
言葉の意味とは、その使用であり、
「言語制度に従って言葉を使用すること」が「言葉に命を与えている原因」
であるならば、思考の「主体」は「言語制度」ということになる。
つまり私たちは、「自我」「私個人」で思考しているのではなく、
言語制度に従って言葉を使用している状態を「私の思考」と呼んでいるだけ、
ということになってしまいます。
しかし、それだけでないと誰でも考えます。
それでは・・・それが以下に述べられている。
話すにしても、文章を書くにしても、まず「私」がある。
その私とは何かが明確になっていない。
ここで、その私の正体が解剖されている。
随想日記を2,000書いてきたが、それは独我論の「私」に気づくプロセスだった。
《私》という「私」の芯は、
歪んだ過去の残物でしかなかったということ??・・
過去の感動・感激・感謝の倉庫??
夢で溢れた夢倉庫??
その総体ということ??
−−−−−
第三章 「私」とは何か
−@
ーウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」−
私たちの脳裏に発生している思考は、言語によって表現されます。
言語以外の方法で表現された自分の思考を、認識することはできません。
原稿を書いている私は、キーボードの打ちすぎで右手が少ししびれてきたが、
それもしびれてきた」と言葉にしてみるまでは気づかなかったことです。
「眠いかも知れない」と感じたことも、言葉にするまで気づかなかったことです。
脳裏で言葉になった瞬間に「感じた」であり、それまでは「思っても見なかった」
ことだと言えます。
そういう私は、本当に主体者なのだろうか?
「私」の営みは、純粋な意味ですべて「私」に帰属しているといえるだろうか。
この問題を詳細に検討したのが、ウィトゲンシュタインである。
彼は、「もし主体者が私であるならば、私だけの世界というものを考える
ことができなければならない」と考えました。
極端に言えば、それは、「私の意識の内部の世界のみがそのものであり、
それ以外は考える必要は無い」ということであり、
それを「独我論」と呼びます。
そしてさらに、もしも「私の意識の外部を考える必要がない」のであれば、
「私だけが理解できる言語」というものが存在するはずだと考えを進め、
それを「私的言語」とした。
言葉の持っている基本な機能に「命名」があります。
私的言語が可能であれば、当然「私的命名」が可能である。
しかし、「私的命名」とは、
結局は「自分だけに通じる何らかの名前を想定する」ことです。
彼によると、「独我論の証明」は、ここで暗礁に乗り上げます。
身しらずの子供を見て、勝手に(心の中で)
「今日からこの子は、私にとってタロウ」と考えたとして、それに何の意味も無い。
命名とは、制度であり、「命名の権利を有した人間」のみが行うことが
できる行為である。「制度」とは、「独我論」的な世界には存在し得ない。
何故なら「制度」とは、「他者」の存在があって初めて存立する概念だからです。
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10月04日(水)
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