ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1563, 死について再び考えるー2
死について何回か取りあげてきたが、一番印象に残っているのが、
中村天風とドフトエフスキーの死刑執行直前体験がある。
中村天風は、銃殺の直前に仲間に助けられたが。
ドフトエフスキーは死刑直前の恐怖体験をリアルに書いている。
ー以下の話は、あまりにも有名である。
ある本より抜粋してみる
彼は若いときに、革命秘密結社に入ったことがある。
それは社会の不正を糾弾する議論のレベルであったが、
秘密警察に目をつけられて、時の皇帝ニコライ一世はメンバーの逮捕を命ずる。
しかし彼らの犯罪の事実は出てこない。そこで政府の面子で有罪となり、
軍法会議で刑が確定する。
最終的には、皇帝の恩赦が書き込まれ、シベリアで4年の刑と強制労働と、
その後の兵役に服することになる。
ところが、その恩赦を言い渡す前に一度死刑が確定し、処刑の真似ごとをする。
政府が仕組んだ罠である。
1849年12月21日、処刑劇が行われる。彼は処刑場に連れて行かれ、
三人ずつ銃殺されることになる。ドフトエフスキーは処刑の二番目である。
その時の死の恐怖を「白痴」の主人公の口を通して、
以下のように語っている。
「生きていられるのはあと5分ばかり。
この5分は本人にとって果てしなく長い時間で、膨大な財産のような気がしたそうです。
この5分間に最後の充実した生活が送れそうな気がしたので、色んな処置を
講じたというのです。
つまり時間を割りふりをして友達との別れに二分間、
いま二分間にいま一度自分自身のことを考える時間にあて、
残りの時間はこの世の名ごこりに、周りの風景を眺めるためにあてた。
・・・・しかし、その瞬間最も苦しかったのは、絶え間なく頭に浮かんでくる想念で、
もし死なないとしたら、もし命を取りとめたら、それは何という無限だろう。
その無限の時間がすっかり自分のものになったら、おれは一分一分をまるで
百年のように大事にして、もう何一つ失わないようにする。
いや、どんな物だってむだに費やさないだろうに」
『(世界文学全集・ドフトエフスキー)より抜粋』
減刑が言い渡されると、ドフトエフスキーは狂喜する。
その仲間のうちに発狂したものもいた。
死の宣告は人間を極限の状態のおかれる。
人間は弱い存在でしかないのだ。
ーー
以上であるが、この体験があったからこそ大小説家になったのだろう。
バンジージャンプの飛下りの板の先に立ったときの恐怖経験がある。
その時思ったことは、
「これは死である。
この凍りつくような恐怖は考えていたことと全く違う。
飛び降りるしかないが、今更止めるわけにいかない。
何をやろうとするのか?
どうしても飛び降りなければならないのか!
ただ前に体を投げ出すしかない!
少しでも躊躇したら恐怖は倍になる!
うわ〜〜〜〜〜〜!」
何か時間が止まるという言葉があるが
・・・・考えていたことと、実際がこれだけ違うのは初めてである。
しかし、ドフトエフスキーのそれは、比べ物にならないほどのはずだ。
私はガン末期の死の宣告はすべきでないと思う。
このドフトエフスキーの心理を、カタチを変えて経験しなくてはならないからだ。
その瞬間から、極限の状態に置かれるのだ。
それも肉体的極限の苦痛で、七転八倒して!
死を考えることは、生を考えることでもあるから取り上げているが。
「死ぬまでは生きているから」と気楽に考えてもいられないが、
しかし気楽に考えるしかない。
ーーーーーーーー
1253, 死について再び考える
過去に死について多く書いてきたが、五十嵐恭一さんの死で改めて
死について考えてみる。
毎晩、何気なく寝ているが、そのまま目が覚めないと仮定して、
そのまま、深い長い夢をみながら死んだとしたら、その夢と現実とは
さほど変わりはしないのではないか。
死んでしまえば、重油をかけられ燃やされ、灰に帰す。
骨は墓に入れられ、一年もしない内にほとんどの人から忘れさられる。
それはそれでいいのではないか。
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07月14日(木)
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