ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1247, さよなら!五十嵐恭一さん
-五十嵐恭一さんへの弔文

友人の五十嵐恭一さんが8月21日の夜半の11時過ぎ、
長岡西病院で亡くなった。
享年57歳であった。
その日はオーストリアの旅行の為、日暮里に前泊していたので、
旅行から帰ってきた翌日の30日になって初めて、その事実を知った。

朝日新聞系の「朝日広告」の営業で、高校の後輩ということもあって、
公私の付き合いがあり、私の弟分であった。
かなり激しい躁鬱症で、間接的だが私がカウンセラーとコントロール役をしていた。
支局長までなったが、その病のため平社員に降格された。
それでも過去の経験を買われて、そのまま同じ職場で仕事を続けていた。

盆暮れを含めて年数回、20年以上飲み続けていた。
アポ無しで事務所で直接来ても、抵抗感を持たせないキャラクターがあった。
気持ちが純粋で、面白いミニ情報を多く持ってきてくれていた。

三年前から、唇に腫瘍ができ、それが原因で転移して末期癌になっていた。
この5月に自宅に見舞いに行ったところ、苦痛に呻いていたのをみて、
末期医療の長岡西病院のビハーラ病棟への入院を勧めた。
(躁鬱病の重症の時も、私が入院を勧めると、直ぐに従った。)

自宅への見舞いの三日後に、即入院をした。
そして最後に見舞いに行ったのが、亡くなる10日前であった。
一緒に見舞った人が、五十嵐さんの知人で、先に亡くなった人の名をあげて、
「私も直ぐに行くから、彼らと待っていてくれ!」と慰めた。
ところが、
「まだ、早い!」と絶叫をしたのをみると、マダマダ生に未練があったようだ。
死ほど、自分と他人の差が大きいものはない。

苦痛は想像を超えていたようで、「24時間の拷問にあっているようだ」といっていた。
奥さんに苦痛の為[殺してくれ!]と、懇願したそうだ。
私の身辺で多くの末期癌の壮絶な死を見てきたが、彼のそれは悲惨で
見るに耐えないほど激しく厳しいものであった。
本人しか知らない想像を超える辛さがあったのだろう。

オーストリアの旅行先で、行く先々の観光地で、バスを降りると雨が降ってきた。
そして、バスに乗ると雨が止む。
それが三度目に、虹が出たとき、
「ああ、五十嵐恭一は亡くなった?!」と、思ったのが事実と知った時、
なるほど、彼らしく自分でお知らせをしてきたのだと思ってしまった。

知人縁者の死は、自分の死でもある。
しかし自分の中では、より身近になって何時までも生き続けることを実感する。

さようなら、五十嵐恭一!
そして、ありがとうございました!

ご冥福を!

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 2003年09月01日(月)
880, 敗戦の時 ー有事の時代に突入 −2

  彼が新宿のビルの上から東京を見ると、
 「大震災の後の無残な街の姿に見えてくる」という。
 このセミナーを聞いていて、その無残な国の真っ只中に置かれて、
 何も手をうってこなかった自分の鈍さに、背筋が凍る思いであった。
 99lの人や会社が手をうってないとしても、大震災から疎開する1%で
 なくてはならないのが経営であり、時代を生き抜くということだ。
 
  この内容を一ヶ月かけて熟慮して、手順に一つずつ落としていくつもりだ。
去年からの対策を含めて戦略は進行中だが、装置産業はこの有事では
大きいハンデになる。
 返済能力が10~15年以内なら「良い借金」の範疇というから、一応大丈夫だ。
 四棟のホテルのうち2棟が新潟駅再開発の道路拡張にかかる。
 ついているのだろうが、しかし有事である。
 ある日売り上げが半分ということもあり得る。
 今は返済能力が100年や500年はざらというが、
その仲間内に入ってしまう可能性も無いとはいえない。
 
 逆に考えれば、大チャンスである。
  
  その為には、自宅などの全ての資産を売払い、その全てを
金ーゴールドに換えておく位の覚悟がいる。
 頭の固まった私に果たして、それができるだろうか。
 できれば今の大震災を軽く乗り切ることができるはずである。

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09月01日(水)
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