ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1056, 千回の力
「何事も千回続けると、何かが見てくるか、何かを感じるようになる」という。
散歩時に「ありがとう」を言い続けて、千回を越えたあたりから何かが変わる。
心から「ありがとう」の言葉が出てくるのだ。
そういえば、この随想日記も千回を去年の暮れに達成をした。
千回を達成した安堵感の為か、その後何も考えたことがなかった。
そこで改めて
「何か変わった事や感じることがあっただろうか」
を内省をしてみることにする。
・ものを見る眼が全く変わった。
ー記者の目、書き手の目で現象を見る習慣がついた。
・テーマ探しを無意識にするようになった。
・そして、そのテーマに対し内省をするようになった。
・脳内サテライトの面白さを実感できるようになった。
・自分が知らない読者や、子孫を意識をして書くようになった。
「何かが見えたか」と問われれば、別に何も見えないし、
「何か感じたか」と問われても、何も感じない。
しかし、書き始めた以前と、それ以降という感がする。
脳内を公開することが想像する以上のインパクトを自分に与えていることに
なっている。
書いている内容に対してコンプレックスも自信も、全くない。
ただ考え、感じた全てを、書き込んでいるだけだ。
その集積が、基地としてのネット上にあることは異様な感じである。
「石の上にも三年」も大よそ千日である。
一つの言葉を気持ちを込めて千回いえば、大よそのことが達成可能になるという。
「駄目だ駄目だ!」と自然に流されれば、繰りかえしてしまうものだ。
言葉は、意識して使わなくてはならないと解っているが・・・
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2003年02月24日(月)
691, 「わたしを認めよ!」−2「読書日記」
ー 気になったところを書きうつしてしてみた。
「ふつう」の意味とは・・
普通の生き方というのがどういうものかは教えてくれない。当然である。
だれも知らないからだ。
わたしが考えるふつうとはこういうものである([[普通」と区別する)。
奴隷みたいな退屈な生き方が上と下の中間(中流)に落ち込んだ普通だとするなら、
目指されるべきふつうとは、みずから選びとった〈中間〉のことだ。
普通が惰性なら、ふつうは意思である。
すなわち、その場その時に可能な限り最善の判断をしようとすること、
それがふつうである。
たしかに、普通に生きていくのは簡単ではない。けれどもふつうとは困難にして容易である。
できるかぎり認識と思考の元手をかけて、どう考えてみても自分にとってはこれが最善であり
最も正しいとおもうことを、覚悟してやるしかないのである。むろん判断は一回かぎりではない。
覚悟もまた一回かぎりではない。
・・・「断念」について・・
・いうまでもなく、自己承認は挫折の連続である(それゆえくりかえし打ち立てられなければ
ならない)。自分はよくやっている、だれが認めなくても自分が自分を認めるという弧絶した
自己承認には限界がある。
すくなくとも、わたしが承認する一人の他者から、わたしは根本的に承認されているという
自己確信は不可欠である(たとえ錯覚であれ、この確信がなければ、そもそも
〈少しだけ大きな他者〉などただの戯言にすぎない。そこまで個人は強くない)。
世界のなかで、わたしはすくなくともひとりの人間から承認されているという確信さえない
ところには、ほんとうの勇気や元気は出てこない。
ところが、ここには根本的な逆説がある。だれも認めてくれなくても、
自分はあくまでもふつうを一生懸命生きるという覚悟のない者には、
他人からの信頼に値する承認はもたらされないという逆説である。
承認は循環するのだ。
その場その時に、最善の判断と選択を求めつづけたあとになにが残るか。信頼するに足る承認が
わたしに残る、とわたしは信じるが、それと同時に、ある種の断念が残るとおもう。
家族、性、社会も、金も、セックスも、有名であることも、そしてあくまでも自分らしく
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02月24日(火)
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