ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[386567hit]
■7245,閑話小題 〜コロナ禍で始まり、終わった年!
考えてみる。一番身近では母がそのプロ?であった。
戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が生きていく中で、
父とともに苦労の連続であった。そして長男、次男の連続の
不幸な死で今の重症のノイローゼーなった。
心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。
亡くなった時、医師の要望で心臓を解剖したら、心臓の4分1が壊死していた。
それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けていった。
約40年近く遊びきって亡くなった。
日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。
毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。
子供ながらに、そのエネルギーに感心をしていた。
遊びの重要さもそのため学んだ。
父は「働く人」、母は「遊ぶ人」と役割分担がハッキリしていた。
ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作っていた。
「遊び」を儒教的影響の為か、キリスト教的倫理観の為か、
罪悪と教えられてなかったか。
子供のころ誰もが、毎日目を光らせて遊んでいた。
ただただ無心に遊んでいた。
あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。
人間は生きていかなくてはならない。
その為に働かなくてはならない。
競争に打ち勝たなくてはならない。
その為に勉強もしなくてはならない。
しかしそれだけでは、それだけの人生だ。
それがクロなら、その対象の白が必要になる。
どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。
それを特に母の生き様から学んだ。
一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。
どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。
そして厄介な不安という心理がある。その為に、お金をセッセと
溜め込まなくてはならない、「馬鹿な?生き物」である。
遊びとは、「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。
そうすると、仕事も遊びになりうる? 天才はその典型である。
あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。
何でも遊びの対象にした「遊び心」を。
純真の心を失っているからだ。
「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。
「遊んでないで、笑ってないで、もっと真面目にやれ!」
と暗示をかけられてないか?
私の趣味の一つにウオーキングある。
初めは腰痛対策であった。今は大事な趣味ー遊びになっている。
純真に楽しいーヽ(^o^)丿のである。
その中に純真な遊び心が躍動を始める。何々のためにといった
場合は、遊びでなくなる。それを乗り越え、純真な遊び心に
なった時点で「遊びに昇華」する。
パソコンもそうだ、このホームページもそうだ。
そこまで持ち上げる必要性を人生で学んだ。
「遊びになるまで集中する」という事か。
さあ… 散歩だ!
ーーーー
2002/01/05
一人遊び
孤独に強い人とは、一人遊びができるかどうかにある。
一人で楽しみを見つけ・・・、書いていて気がついた、
それって「お宅」でないか。似ているがやはり違う。
それは一人遊びのできない人が表面を見て、いっているのでは?
結局中途半端のそれをいうのではないか?
字のとおり、部屋に引きこもって自分の殻にこもった状態をいう。
山登りや釣りはやらないが、これなど一人遊びの典型である。
別にそれをお宅といわない。読書好きの人もお宅といわない。
自分の強みは孤独に強いことだ。人に何かを求めないこと、求めても
そこに何もないことを、経験上知っているためだ。
結局人間最後は一人だ。そこでボールを一人でバウンドさせていくしかない。
そうしていれば、人が面白そうと自然に寄ってくるものだ。
「禅」とは、その修行によって、字のごとく、単(一人)を示すことだ「示単」。
これはある有名な禅僧から直接聞いたことだ。そこで自分の好きのことを見つけ、
それを楽しむことから始めなくてはならない。その積み重ねが個性を作る。
個性は孤独がつくる。 ノイローゼになる人をみていると、これができない。
常に他者に何かを求めるか、頼っているからだ。
・・・・・・
[5]続きを読む
12月18日(金)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る