ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■7029,閑話小題 〜梅雨入りですか
それは、所有をしなくても可能なこと。 大自然が数億、数千万年かけて作り
上げた景観に自ら近寄り、荘厳な世界に我を忘れ、感動するのが魂への最高の
御馳走。大都会の良さは、美術館や大ホールが多くあり、一流の芸術作品や、
演劇などに多く触れる機会が多くある。地方の良さは、自然の懐が深いこと。
 どちらも、それを感じ、受止める基礎がなくてはならないが。せっかく、
地球に生を受けたのだから、魂へ滋養を与え、鍛錬しなかれば生まれた甲斐が
ないではないか。余裕がない? ならTVを通して滋養は充分に取ればよい!

・・・・・・
5202,「人生はドラマだ」の演繹論的アプローチ
2015年06月12日(金)
      〜『社会学〜フシギなくらい見えてくる!』現代位相研究所(著) 
   * ドラマトゥルギー
 哲学では、古来から人生を演劇に例えて、役割、演出、観客の目線から、
人生の意味を考えていた。それを社会学者が研究対象にしたのが以下である。
≪ 「人生はドラマだ」といわれることもあるが、まさにそのようなものとして
社会を研究した学者がいる。アメリカの社会学者アーヴィング・ゴフマンである。
ゴフマンは、人々が日常生活の中で、まるで舞台俳優のように演技し、周囲に
与える印象に気を配りながら行動しているという観点から、そのさまざまな実践
を詳細に描き出そうとした。ゴフマンのこのアプローチを「ドラマトゥルギカル
アプローチ」(演劇論的アプローチ)という。
ゴフマンの指摘によれば、私たちは常に「会社員」「親」「教師」「患者」と
いった社会から与えられた役割を状況に応じて演じ(役割演技)、自分の与える
印象を管理している(印象管理)。しかしゴフマンは、人々がただ自分の都合を
よくするために印象管理を行なっているといいたかったわけではない。
ゴフマンは、印象管理が時に舞台の維持を、つまりその場の秩序を維持するため
にも行なわれている、という点に着目した。「この状況では誰がどういう役割を
果たすべきなのか」という「状況の定義」が参加者に共有され、それぞれが役割
演技を行なうことで初めて、日常生活が成り立つと考えたのである。
 たとえば教師が生徒の前で、自分のわからないことを巧妙に隠そうとしたとする。
もちろんこれは自分の体面を守るために行なわれていることでもあるだろうが、
その一方で「学校の授業」という状況を守るためにも行なわれている。
教師は生徒に勉強を教え、生徒は教師の授業を聞く。「学校の授業」は、「教師」
「生徒」という役割に基づいた一つの舞台であり、これが壊れてしまえば、
まさに学級崩壊になってしまいかねない。
しかし、人は一方的に与えられた役割を演じるばかりではない。役割から敢えて
距離をとり、そこに役割から離れた別の自分を示そうとする場合がある。これを
「役割距離」と呼ぶ。「学校をサボる」ことを考えてみるとわかりやすいだろう。
往々にしてそういう場合、学校をサボって何かしたいことがあるというよりも、
それによって「生徒」という役割から距離をとることが第1の目的だったりする。
ゴフマンは、ドラマトゥルギーという観点を通じて、日常生活がごく些細な
不具合で破綻する壊れ物であり、役割演技と役割距離との駆け引きによって成り
立つ動的なものであるということを示そうとしたのである。「人生はドラマだ」
という言葉の通り、この観点は一見当り前のように思えるかもしれないが、
「現実が事実としてどうであるか」ではなく、「人々にとって現実はどう成り
立っているか」に視点を転換させることによって、人々のコミュニケーシヨンの
あり方を研究するために重要な役割を果たしているのである。 ≫
▼ 「世間様」の人々も、それが現実という幻想なら、それに同調するのも、
 一つの在り方であり、役割ということになる。硬く、蛇蝎のように嫌うことも
ないのである。旅行の効用の一つに、日常から「役割距離」を置いて、自分を
改めて見つめる効用がある。「印象管理」も、目新しい言葉だが、「役割演技」

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06月12日(金)
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