ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6605,つれづれに哲学 〜「遊び」について再び

「禅」とは、その修行によって、字のとおり単(一人)
ということを示すことだ「示単」。
これはある有名な禅僧から直接聞いたこと。
そこで自分の好きのことを見つけ、それを楽しむことから始めなくては
ならない。その積み重ねが個性を作る。

ノイローゼになる人をみていると、これができない人だ。
常に人に何かを求めているか、頼っているからだ。

――
2002/02/24
遊びについて−1

人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。
そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。

まずその達人を事例で考えてみる。
一番身近では母がそのプロ?であった。

戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が生きていく中で、
父とともに苦労の連続であった。そして長男、次男の連続の
不幸な死で今の重症のノイローゼーなった。
心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。亡くなった時、医師の要望で
心臓を解剖したら、心臓の4分の1が壊死していた。

それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けていった。
約40年近く遊びきって亡くなった。
日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。
毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。

子供ながらに、そのエネルギーに感心をしていた。
遊びの重要さもそのため学んだ。重点としてだが父は「働く人」、
母は「遊ぶ人」と役割分担がハッキリしていた。
ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作っていた。

「遊び」を儒教的影響の為かキリスト教的倫理観の為か、
罪悪と教えられてなかったか。
子供のころ誰もが、毎日目を光らせて遊んでいた。
ただただ無心に遊んでいた。
あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。

人間は生きていかなくてはならない。
その為に働かなくてはならない。
競争に打ち勝たなくてはならない。
その為に勉強もしなくてはならない。

しかしそれだけでは、それだけの人生だ。
それがクロなら、その対象の白が必要になる。
どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。
それを特に母の生き様から学んだ。

一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。
どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。
そして厄介な不安という心理がある。
その為に、お金をセッセと溜め込まなくてはならない、
「馬鹿な?生き物」である。

遊びとは、「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。
そうすると、仕事も遊びになりうる。
天才はその典型であろう。

あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。
何でも遊びの対象にした「遊び心」を。
純真の心を失っているからだ。
「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。

「遊んでないで、笑ってないでもっと真面目にやれ!」
と暗示をかけられてないか?

私の趣味の一つにウオーキングある。
初めは腰痛対策であった。今は大事な趣味ー遊びになっている。
純真に楽しいーヽ(^o^)丿(^^♪!(^^)!(#^.^#)(*^^)vのである。

その中に純真な遊び心が躍動を始める。
何々のためにといった場合は、遊びでなくなる。
それを乗り越え、純真な遊び心になった時点で「遊びに昇華」する。

パソコンもそうだ、このホームページもそうだ。
そこまで持ち上げる必要性を人生で学んだ。
「遊びになるまで集中する」という事か。

これから散歩だ!

・・・・・・
2001/12/21
[164] 目的と手段

目的の達成の為の手段’がときとして逆転してしまうから面白い。
‘手段の目的化’に転化してしまう。旅館やホテルの二代目にそういうのが多い。
営業の為のゴルフを始めたのが、いつの間にかゴルフが目的になり、
営業が反対に手段になってしまう。
何処でもある話と同時に,自身にも過去に数え切れないほど経験がある。
手段を楽しむ事は大事な事だ、そうでなくては目的は果たせないといっていい。
といって目的を忘れて手段に没頭してしまうのが、人間の人間たるゆえんである。

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04月16日(火)
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