ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3915, 閑話小題
ニーチェはこれに対して強者の道徳,貴族的な誇りや勇気を讃える戦士の道徳,
君主の道徳を対置した(ニーチェ『道徳の系譜』)。これは結局ファシズムによって利用される結果にもなった。}
ーー
あるブログの中では、
{ニーチェは、人が「善悪」という言い方をする真の原因は現実世界の力関係にあると言う。
強大な民族が平和に暮らしていた弱小民族を襲い、征服したとしよう。勝者は敗者の財宝や婦女を奪い去っていく。
残された人々は、相手に害も及ぼしていない自分たちを襲い、悲惨な目に会わせた相手を悪の権化として呪うだろう。
それに比べ、罪なき自分たちは善である。「善悪」はこうして、カでは相手にかなわない弱者がせめて「道徳的」には
優位に立って、相手を見下そうとする心理、「妬み(ルサンチマン)」から発生する。
同じことは「正義」「節制」「勤勉」「清貧」などあらゆる道徳的価値に言える。
(字数制限のためカット 2011年12月14日)
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2006年12月14日(木)
2081, あたりまえのことばかり −20 才八∋ウ_〆(∀`●)
ここでは哲学という視点で、心の問題を取り上げているが、感情について、なかなか切れ味は鋭い。
「激しい感情が、向こうからの訪れる」とは、なるほど!である。 向こう側とは何処なのか?
学生時代に[情念の話術]という本を読んで、実際に自分で試したことがあった。
喜怒哀楽を前面に出して、自分を押し出して、話しをする。車でいうと、感情というエンジンを前輪駆動にする。
これをやりだすと、それまでと全く違った自分を見出せる。
抑えている感情を逆に、エンジン代わりに言葉にのせて自分を奮い立たせる。
これは性格改造にもなるが半面、非常に危険である。一つ間違うと、周囲を深く傷つけてしまう。
これはヒットラーが大衆を煽動する手段として演説などに使った。よほど計算を緻密にしておかないと、
自分が見えなくなる。しかし自分の感情を常に支配下に置くに、よい訓練になった。
感情を道具にするのだから。傷つくということは、感情に支配さえていることだから!
ー傷を癒すには傷とは何か、傷つく感情とは何かを、考えてみなければなるまい。
虚構の自我に捕らわれている自分に気づいていない無知が、勝手に傷ついているだけ。
要点を抜粋してみる。
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どうすれば癒されるのか −?
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私が私であり、私の心が私の身体の中に存在するという錯誤の世界像を思い込んでいる人だけが、各種のグッズや
セラピーによって「癒される」。癒されたと思い込むことができる。「本当」の傷を負った人々は、
そのような単純な主客二元の処方箋では治療できず、「本当か」の問いに直面するのではなかろうか。
すなわち、傷ついている人は誰なのか。「私の」意志を越えて立ち上がるこの感情の激しさとは何か。
「私の」運命はなぜこのようでなければならないか。私は私である、すなわち私は自我であるとは明らかに虚構であり、
しかも近代特有の虚構である。それなら、病理として現れるその崩壊現象こそ、ある意味では、近代以前の本来的の
ありようを示しているといえるかもしれない。古代の人々にとって感情の自律性とは、それ自体で神々の訪れだったようである。
怒りの神が、嫉妬の神が、憎しみの神が、到来する、私の心に、このとき私の心が私の所有であるとは意味を成さないだろう。
感情それ自身が神々である。あるいは魂が複数の人格から成るという世界観は、現代のわれわれの心的生活を、少なからず
解放する。ある強い感情に圧倒される時、これは「私の」感情ではない。向こうからの訪れなのだと捉えることは、
自己観察の距離を生む。逆に、見慣れない感情、厄介な感情をもむかい入れ、親しむ余裕すら生じるかもしれない。
(字数制限のためカット 2010年12月14日)
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2005年12月14日(水)
1716, 絵文字が面白い!ー2
ー喜怒哀楽の絵文字
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