ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3462, 純粋持続 −2
(実際は東京だが)
そして、富士山でなくてカイラス山がみえる。 もしかすると、この人生ではなくて、その前のいつか巡礼に
行ったことがあるのかも、と思い直しました。 だとすると、僕の中で辻褄が合うのです。
カイラス山はそれだけの格と威厳がある山ですからね。超意識の神話的空間内だったら、カイラス山も見える。
それだけのリアリティのエネルギーを持ってなかったら、何が聖山ですか。
ー日野ー
僕は実は世の中を楽しんでいる、あるいは生きていること、人間であることが好きなんじゃないかと思い当たったんです。
それを好きでないように思い込んでいきていたのが、いよいよ最後のところに来て、
その思い込みが剥がれ落ちて本当の地が出たんだと気がついた。
もう一つ考えたのは、人生はなにも正しく生きねばならいことはないと。楽しく明るければよい。
正しくありたいと思ってきたが、それは最も大切ではないとベッドの中で声に出して自分に言った覚えがあります。
ー保坂ー
(字数の関係でカット、2009年09月17日)
ーーーー
冷徹な記者あがりの作家が幽体離脱をして、チベットの霊山のカイラス山にいってきた。
それも夢ではないと言い切っている。 また、ー僕らは日ごろいとも簡単に現実と夢と言います、
全く別のように。でも本当は、そう分かれる以前のところに生きているんじゃないか。
「夢現のあいだ」ということを東洋の人たちは古くから知っていたように思います。
「夢現のあいだ」は「無現のあいだ」でもありましょう。 という、クダリは、生死の狭間での極限から生じた
魂の深い世界を垣間見た体験があるからこそ、言えることだ。人間の脳には、信じられない能力が隠されている。
死の瀬戸際を漂うと、その一部を垣間見ることができるのだろう。死ぬ時の楽しみでもある。
ー面白いことに、去年の今日老子と荘子のことが書いてあった。意味ある偶然の一致である。
・・・・・・・
2004年09月17日(金)
 1263, 老子と孔子
本を読んでいて、時々ハッとする文章に出会うことがある。 以下を書き写してみるが、儒教と道教を対比させることによって、
それぞれの本質を、より解りやすく知ることができる。    (生き方の研究ー森本哲郎 P・302より)
ー「孔子の教え」はあくまで「厳父の思想」であり、対する「老子の思想」は「慈母の思想」とみることができよう。
老子と目される人物が生きたのはー孔子もそうだがー春秋、それにつづく戦国時代の乱世であった。
誰もが真剣に生き方、というより生き抜くための知恵を求めていた。それに、応えて、孔子と老子に代表される
儒教と道教が生まれたのである。対立というより、対照というべきかもしれない。いずれが是で、いずれが非か、
などという問いは愚かである。我われは、ここに二通りの生き方を見、学べばよいのだ。考えてみれば、この世には
「人間なるものは存在しない。生きつづけてきたのは、男と女である」。人間とは、女と男の総合した抽象概念である。
だとすれば、その「人間」には、当然二通りの生き方が考えられよう。すなわち、男性原理による哲学と、女性原理に
つらぬかれた思想である。中国は孔子、老子という祖によって、二元的に、つまり、全人的に生きてきたといってもよい。
私たちが学ぶべきことは、そのような二つの知恵なのだろうか。 中国の作家、林語同は、こう書いている。
ー功なれば儒教ー孔子ーの徒になり、失意の時は道教ー老子の徒に奉じるようになる。
 道教の自然主義は、中国人の傷ついた魂を和らげる鎮痛剤なのである。
得意と失意で織りなされた人生、それを歩む人間の生き方ー
それは何といっても「父」と「母」に従うことなのではないだろうか。
ーーーー
以上であるが、
道教と儒教を対比させ中国そのものを、いや人間の生き方の知恵を提示している。学生時代、「諸子百家」を読んだ時に、
孔子の教えは堅苦しく思い、むしろ老荘の思想に共鳴をした。老子の言わんとする要諦は ー小さな私心を捨て去れということだ。

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09月17日(金)
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