ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3450 秘・異郷の旅、よもやま話 -7
と思い立ち書いている。 当時、転勤で大手商社の新潟支店に来ていた大学時代の友人と、この話を酒のツマミにして
酒を飲んだことを思い出す。 その友人が、ダンスをフォーク・ダンスと喩えたのは面白かった。
その後「一人踊りでドアに行くとしたら何だろう?」と誰かにいったら、「鼻歌を歌いながらスキップすることじゃないか」
と答えた。なるほど、そのとおりである。 この話、よく酒のツマミにするが、けっこう受ける。
「ドアはドアでも、どの部屋のドア?まさかベッドルームじゃ、話が落ちるか?」と、言った人もいた。
ダンスの相手も色いろ考えられる。「困難」と考えると面白い。困難を嫌がらず、むしろ踊りの相手として一緒に楽しむ?
まあ、かなり難しいが、それがゲーム化ということになる。事業の立ち上げも、ダンスの相手と思うとよい。
人生の全てを賭けてのダンスだからスリルとサスペンスがあり命がけである。人生、ストリッパーの裸踊りのようなもの
と言うと、例えが悪いか? 隠すべきところは隠しておかなくては、色気も面白みも無いところが同じ。
手段の目的化と、目的の手段化、そしてその融合化と言ってしまえば話はつまらなくなる。
たまたま去年の同月同日に『楽しく生きる』というテーマが書いてあった。この文章を引き継ぐのに丁度よいテーマである。
12年前の文章である。
ーー
H0609 歩行とダンス-1
丸山圭一郎と黒鉄ひろしの対談集で“歩行とダンス”という二人の対話が面白かった。
“ドアにむかって歩いていくのが歩行、これは手段である。ダンスはドアに向かわないし、その行為そのものが目的である。
それではドアに向かってダンスをおどって行く事はありうるか! ありうる!”という。 非常に含蓄のある面白い内容である。
人生、仕事、学問すべてにあてはまる内容である。今回の仕事(第二新館増築)の最中にこれをよみ、
“よしこの仕事とチーク・ダンスをして、ドアまでいってやれ”と、一人笑った。
私の学生時代の大手商社に勤めている友人と、酒をのみながら右の話をした。
本人いわく “私はさしずめ、それはホーク・ダンスだな!。好きな奴もいやな奴も次々と仕事仲間でまわってくる。
それも楽しそうな顔をしながら手に手をとっておどる妙味!” 当意即妙であった。
ドアに向かっての歩行なら誰でもできるが、それをダンスとしてリズムをとりながらパターンをマスターし、
かつ楽しみまで高めてドアに向かう事となると誰にでもできない。ついついドアを忘れたり、ダンスを忘れてしまう。
ダンスを忘れある年令に達して愚痴を言っている人が何と多い事か。 そしてその反対に逆の人も。
・・・・・・・
2005年09月05日(月)
1616, 楽しく生きる−1
「楽しく生きる」を、私流に「面白おかしく生きる」というコンセプトにして自分に課してきた。
それも20歳代の頃からである。むしろ「楽しみを見つけだす」という生き方であった。
私の行蔵の中の「楽しい時間」の中には、溢れんばかりの行蔵が詰まっている。
(他人からみたらガラクタだろうが、私にとってお宝である)
楽しいときは、どういうときであろうか。
・自分のしたいことをしているとき ・何かを期待してワクワクしているとき
・感動をしているとき ・自分の望んでいたことが実現しているとき
・人に褒めてもらえたとき ・自分の生き方に自信を持ってるとき等々、上げられる。
いずれも肯定的な感情に包まれ、自分の欲求が満たされたときである。
一度だけの人生、肯定的な感情で、かつ自分の欲求を満たさなかったら、人生を浪費していることになる。
特に人生の後半は前半ほど単純ではない。多くの過去を背負っているからである。
ならばこそ、その中で「楽しく生きる」喜びも深くなる。 文筆家(哲学者)池田晶子 の
「楽しく生きるためにどうすべきか」という文章がよい。彼女は、哲学することの意味を平易な言葉で語ることに定評がある。
ーまずは、彼女の文章をそのまま書き写してみる。
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09月05日(日)
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