ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[395544hit]

■3087,挫折を考えてみようか −2
誰もが真剣に生き方、というより生き抜くための知恵を求めていた。それに、応えて、孔子と老子に代表される
儒教と道教が生まれたのである。対立というより、対照というべきかもしれない。いずれが是で、いずれが非か、
などという問いは愚かである。我われは、ここに二通りの生き方を見、学べばよいのだ。考えてみれば、この世には
「人間なるものは存在しない。生きつづけてきたのは、男と女である」。人間とは、女と男の総合した抽象概念である。
だとすれば、その「人間」には、当然二通りの生き方が考えられよう。すなわち、男性原理による哲学と、女性原理に
つらぬかれた思想である。中国は孔子、老子という祖によって、二元的に、つまり、全人的に生きてきたといってもよい。
私たちが学ぶべきことは、そのような二つの知恵なのだろうか。 中国の作家、林語同は、こう書いている。
ー功なれば儒教ー孔子ーの徒になり、失意の時は道教ー老子の徒に奉じるようになる。
 道教の自然主義は、中国人の傷ついた魂を和らげる鎮痛剤なのである。
得意と失意で織りなされた人生、それを歩む人間の生き方ー
それは何といっても「父」と「母」に従うことなのではないだろうか。
ーーーー
以上であるが、
道教と儒教を対比させ中国そのものを、いや人間の生き方の知恵を提示している。
学生時代、「諸子百家」を読んだ時に、孔子の教えは堅苦しく思い、むしろ老荘の思想に共鳴をした。
老子の言わんとする要諦は ー小さな私心を捨て去れということだ。
人間存在なんぞは宇宙から見れば砂、いやチリのような存在だ。
それを真に理解すれば、無為自然、母なる自然の道に従うのが一番の近道ということが解ってくる。
人間が生きていくからには、常に挫折と失意が波のように、押し寄せては返していくものだ。
その時、宇宙的視点でその波を見つめる視線が道教の真髄である。
 ー老子の思想の幾つかを書いてみるとー
・道を体得した人は、何事にもとらわれず、言葉を使わず教えを行なう。
・もっとも理想的な生き方は、水のようなものである。
 水は、万物に恵みを与え、相手と争そわず、衆人の嫌がる所へと流れていく。だから道に近いのである。
・実在が意味をなすのは、無が作用しているからである。
・道を体得した者は、行動した跡をのこさない。

・・・・・・・・
2003年09月17日(水)
896, 言いわけ読本 ー読書日記
               塩田丸男 中央図書館ー2003・09・14日
ー感想
言いわけの評判は古今東西かんばしくない。といって言いわけが無くなればよいのかというと、
そうではないだろう。言いわけも考えてみれば、原因追求の不可欠な要素とも言える。
また、自分を正当化するためにも必要な部分があるだろう。
(以下、字数の関係でカットー2007年09月17日)
・・・・・・・・
522,勉強法ーノートのとりかた--3 -
2002年09月17日(火)

 以前にも「鳩山家の勉強法」でも書いたが、レオナルド・ダビンチや
 モーツアルトなどの過去の天才のノートやメモの共通点があるという。
・絵と図を中心として、そこに文章を書き込んでいる。 空間配置を中心にしてある。
 知識としてより、創造のエネルギーが、それを共通項として必要としていたのか、直感的なのか?
・似た方法として、左か右に普通のノートをとり、反対側に絵や図や遊びなどの自由のコーナーにしてある。
 考えてみれば、脳そのものが右脳・左脳と二重構造になっているいるから、そうする事が自然で効率が良くなる。
 このような箇条書きも、してないよりはず〜とよいが、できたら空間配置のほうが良いのだろ。
 空間配置の中でフルに○と→をフルに使ってそれぞれの関係を現しながら、解りやすく表現する事が重要だ。
 考えてみたら、これはある目的を達成する為、中世から現在まで、見取り図、発想法、かつ記憶の手段であった。
 また対象をわかり易くする為の手段でもあり、準備作業でもあった。 今はパソコンに変わろうとしている。
 私の場合パソコンのワープロ機能の活用で、毎日の随想日記が可能になった。

[5]続きを読む

09月17日(木)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る