ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■8044 〜閑話小題 :「ストイック」について
・・・・・・
6236,閑話小題 〜 「人間は血のつまった袋である」(カフカ)
2018年04月10日(火)
* 寺山修司 ・語録より
「所詮、人間はくそ袋」というが、「血の詰まった袋」とは。
それも「話かかける袋」とは。学生時代に名前を聞いたことがあったが、実際に
読んだのは、『さらばハイセイコー』の詩である。こうして読めるのは、実社会
の経験と、知識のベースが出来たからだろう。『旅の詩集』ー逃げろ、生きろー
などは特にそうだ。
〜ネットで<寺山修司語録>で、検索すると、彼の語録があった。
――――
“カフカは『兄弟殺し』の中で「なぜ人間は血の詰まったただの袋ではないのか」
と問いかけているが、 その答は簡単だ。人間は「話しかける袋」だからである。
「血の詰まったただの袋」は決して叫んだり話し話しかけたりはできないのである。”
“カフカは『兄弟殺し』の中で「なぜ人間は血の詰まったただの袋ではないのか」
と問いかけているが、その答は簡単だ。人間は「話しかける袋」だからである。
「血の詰まったただの袋」は決して叫んだり話し話しかけたりはできないのである。”
―
“個人の主体だけが重要なので、画一的な思考は排すべきだという考えは
変わらない 。それはいわば事実ではないが真実の世界であって、虚構ではないが
幻影の体験なのである。”
―
“われわれの日常を規制しているのは事実ばかりではない。むしろ事実を
生み出している権力家の<あるいは自分自身の>迷妄なのである。”
“私はこの時代が変わって決して避けられない必然の下に暗い様相を帯びている
とは思えなかった。悲劇的ではあったが、悲劇そのものではなかった。だから
「ニーチェの時代には悲劇的なものを求めることが英雄的であったのに対し、
すでに悲劇的なものが予め与えられている現代では、幸福を求める行為以外に
ニーチェの説いた感情の高密度を保証するものはない」とさえ思ったのである。”
“「運のわるさ」というのは、時代との折り合いがうまくつかないという
ことよりも、自分自身との折り合いがうまくつかないということ”
“「行く」という行為は在りうるが「帰る」という行為はありえないのだ。
回帰するやつは、みんなくたばれ。”
“おやすみは、コミュニケーションの終わりの挨拶である。ここからは何も
はじまらない。……だから、私は「おやすみ」ではなくて「おはよう」という
ことを考える。くたびれて「幻滅の風景を愛撫し」つづけてきた長い灰色の夜を
終わらせるのは、この「おはよう」の思想化ということである。「おはよう」は
主体的だと「おはよう」はこっちから話しかけるための出だしのファンファーレ
である。それは話しかけられるのではなくて話しかけるためにある。”
“詩人に「公生活」があるのかどうかが問題である。彼等の大部分は詩を
実業としてはいず、他に職業を持っているからである。「詩」は虚業だ。
…私は、ふと「詩人」というのは形容詞なのではないだろうか、と考えること
もある。岡田茉莉子は「美人」である。というような意味で、かれは「詩人」
である―というわけだ。”
――――
▼ “昨日の自分は、いわば影だ。昨日の自分は痛くもなければ快感も感じない。
それは決して今日の自分とは比較できないものなのではないだろうか?…
…人は誰でも、現在的な存在である。…「わたしが一番きれい」だと感じるのは、
いつだって現在なのだ。” の詩が、鋭く突き刺さってくる。
老年に至ったためだろう、泥沼のように過去が、容赦なく現在の私を脅かす。
閑居は、良いことばかりではない。心の中は、快晴の時も、大嵐の時もある。
今の私にとって、「現在は、過去の影でもある」。過去と現在の対話で、何時も
圧倒するのが、過去である。年齢だろう。「老いることは無念!」と言ってた、
伯母の言葉の実感が徐々に身に染みてきた。それを寺山の詩から思い知るとは…
‘生きていればこそ’ではあるが。
04月10日(月)
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