ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■8042,閑話小題 〜絶対主義の限界を誘導することに…
として投票。それでも当人はトップ当選ともなれば、何をか言わん… 支持者の
忖度があったということ? ここは城下町長岡。この程度では落選はない。
* 庭の梅の木に鶯が連日…
庭の梅の木の花が満開で、このところ連日、鶯がやってきて「ほ〜ほけきょ」
と声高らかに鳴いている。全身が黒目で鶯色が混ざった小型の大きさ。絵に
なっている。何故か何時もカラスの鳴き声の直後に、飛び出していく。
この咲き具合だと梅の実が大量に穫れる。そして、梅の隣の桜、次が藤の開花に。
植えた両親は亡くなっても、花は、その時節に咲く。家庭とは家+庭の佇まいを
いう。家主が替わっても、そこの草木は育ち続け、花咲き、野鳥を受入れる。
梅も、桜も、藤も、老木?になったが、毎年、この時節に忠実に開花する、
4月上旬の春の息吹きが何とも嬉しい。そして、平成が春と共に終わる。。
・・・・・
4772,ぼんやりの時間 ー5
2014年04月08日(火)
「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著)
* 「独」―独りでいること ーぼんやり道
「ぼんやりの時間」は独りでいる時である。人間は生まれてくるときも、
死ぬときも独り。宇宙の一点に独りおかれた存在で、その背後には暗黒が
無限に広がっている。だから、自分という存在と、親しい人の存在が大事。
ー以下の部分に納得するー
《 アン・モロウ・リンドバーグは1955年に『海からの贈りもの』を刊行
している。この本には、多くの心に残る言葉がある。 たとえば
「今日、わたしたちは、ひとりになることを恐れるあまり、ひとりになる
ことができなくなっている」という言葉。いつもだれかとつるんでいたい、
群れていたいという習性になじんでくると、人はしだいに「独りになること」
が怖くなる。仲間はずれにされるのが恐ろしくなる。群れてみたからといって、
心が満たされるものでもないのだが、独りっきりになるよりはましだという
気持ちになり、人は群れようとする。A・M・リンドバーグはこうも書いている。
「わたしたちは、ひとりの時間を求めなければならない。ひとりで静かに
過ごす時間。ゆっくりと考える時間。祈りの時間。音楽、読書、そのほか
何かの勉強でも、仕事でも、自分を自分の内部に向かわせて、わたしたちを
分断しようとする各種の遠心的な力に抵抗しなければならない。」
なぜ独りになるのか。独りでいることによって、人は「静かに過ごす時間」
というものを味わうことができるからだ。「ゆっくり考える時間しを過ごす
ことができるし「自分の内部」に思いを向ける時間をもつことができるからだ。
「空想にふける」時間も生まれる。『孤独の空間に自分の夢の花を咲かせる」
ことだってできるのだ。そして、独りでいることと、ぼんやりすることとは
かなり重なっている、と私は思う。・・(略)
「寄せては返す波。松林を吹き抜ける風。砂丘をゆったりとはばたきながら
飛んでいく都鶏。そんなものが、あわただしい都会の暮らし、時間割りや計画
のざわめきを消してくれる。そうして、ただそこに横になったままのわたしを、
あるがままでいさせてくれる。横になったわたしは、波で平らになった浜辺と
ひとつになる」。「ぼんやり道」というものがもしあるとすれば、このあたり
の文章はまさに「ぼんやり道の奥義」、といっていいだろう。
ただそこに横になっている。あるがままの自分がそこにいる。・・
リンドバーグは、さらにこの本で、「孤独の力」といったことについて、
重要なことを書いている。「ひとりでいる時間は、一生のうちでもきわめて
重要な時間である。ある種の原動力は、わたしたちがひとりでいる時にだけ
湧いてくる。芸術家は創造するために、作家は考えを深めるために、音楽家は
作曲するために、そして聖者は祈るために、ひとりにならなければならない
ことを知っている」 独りでいる。独りでいることで、心安らかにぼんやり
することができる。ぼんやりしながら、いつか自分の内面と向き合っている。
謙虚な気持ちで、内面と向き合っている。・・・ 》
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04月08日(土)
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