ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■7345,閑話小題 〜個性的美女・談議
マッタ―フォルンの旅>に、参加した話題を加えると、丁度良い味付けになる。
で、次回は<マッタ―フォルンの電子凧揚げ> の『超ショートショート』を!
尤も、この文章自体、ノンフェクション系ショートショート?
・・・・・・
2911,人生は作品である
2009年03月25日(水)
「人間にとって、その人生は作品である」これは司馬遼太郎の言葉である。
「人間には志がある。その志の味が、人間の味である」という言葉もある。
身近で亡くなった両親の生き様を見てきてつくづくと、人生は作品という
ことが理解できる。そして生きている限りは未完であるところが、ミソ。
死んだ時に完成するが、その時は自分にとって関係ないことになるから絶妙。
哲学では人生を「劇場」に喩え、その役割配置から、その真理を突き詰めていく。
それぞれが人生劇場では主役。 それは第三者が口挟むことでない。
本人の意志に従う物語。従って還暦を迎える頃になると、その物語の辻褄
合わせが始る。シナリオ、主演が自分であり、観客の一人も自分。
だから面白いのであり、悲しくもある。 自分で悲劇の場面と思っても第三者
の目からみれば喜劇に思える。(逆も言える)
年齢を重ねて分別がついてきて、人生を振り返ると顔から火が出ること度々。
主役は次から次へと襲ってくる難問を乗り越えるのが役割。 難問そのものの
内容が物語を決めることになる。だから、問題に対して嘆いてはならない。
(自分の火種もあるが)問題と本人の意志が自分の人生の作品を決定する。
キュープラー・ロスは<人生劇場は「レッスン=学び」であると看破>
(以下、字数制限のためカット 2015年3月25日)
・・・・・・
5853,物語で経験する「生老病死」 −3
2017年03月25日(土)
<老いの風景 ー物語で経験する「生老病死」〜石光勝・著>
* 寂聴と今東光
若き日の官能作家「瀬戸内晴美」を見知っていたが、今では尼僧の身。
一言一言が、常人では理解できないような人生を味わい尽くしたが故の
圧倒的なエネルギーが満ち溢れている。着の身着のまま家出をしたくだりと、
本人と思われる「そういう一日」の、この圧倒的場面が強く印象に残っている。
〜その部分から
≪ タイトルの『風景』とは?自身のことを書いた3作「デスマスク」「絆」
「そういう一日」を景色として眺めたことによるのか? 全7篇。
なかでも、「そういう一日」に描かれている出家に到る様は、ある種の
凄まじさがある。 その凄まじさは・・・
【 <出家させて頂きたいのです>
「御家族はどう言われている」
<家族はございません。両親はとうに死亡しています。姉が一人、父の残した
家業を守っていますが、電話で出家すると告げましたら、あら、いい年貢の
納め時ねと申しました>
「そのお姉さんが、得度式で一番泣かれるよ。
肉親というのは泣くものだ。 髪は?」
<剃ります>
「無理に剃らなくてもいいんだよ」
<私はだらしない駄目人間ですから、型からも、
きちんと入らないとつづかないと思います>
「下半身は?」
<断ちます>
「ふむ。仕事は?」
<続けたいと思っています。でも出家したら書かせて
くれない場合も予想しています>
「その時は?」
<ひとりで書きおきます>
「わかった。あなたは尼僧になる前に、れっきとした小説家だったことを
忘れてはならない。死んでもペンを放さないように。坊主とつきあうことも
ない。寺をもつこともない。書くために出家をするのだから」 】
この会話の二人、真偽は別にして今東光と寂聴である。≫
―
▼ 奔放すき放題に生きれば、娑婆には思い残すこともないはず。
宇野千代と対談で、この日のことを具体的に話している。女傑同士の話は…
世には魔性の女がいるそうな? リアルな、純粋一途で、床上手な、しかし
恐ろしいのが巷を徘徊しているそうな。水商売より、普通風の人に多いという。
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03月25日(木)
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