ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6894,閑話小題 〜今場所の総括 …80点!
 しかし「お道具」の性格をよくあらわしています。お道具は、それ自体で既に
 道が具わっている。しかし、それを演奏する自分の道が具わっていなければ、
 いい音が出ない。何年もの修行によって自分の道が具わったときに、はじめて
 「お道具」が本来の輝きを発し始める。つまり、シテ方や笛方、鼓方は、
 「道具」を通じて能楽師としての道を歩んでいくことができる。
 しかし、道具を持たないワキ方は、それができない。
・こんなふうにして、ある程度自分の音を鳴らせるようになると、
 その人の弟子にまた笛を譲り渡し、その弟子が何十年もかけて自分の音を
 十分に鳴らせるようになると、また次の弟子に笛を受け継いでいきます。
 そうやって、数百年にもわたって、「道具」を次につないでいくわけですが、
 ワキはそのための「道具」が何もないじゃないか。そう、シテ方や笛方、
 鼓方の人たちは言うのです。 が、じつはワキ方にも「道具」はあります。
 それは、自分の身体です。自分の身体と「道具」として向き合い、いかに
 つきあっていくか、というのがワキとしての道の歩み方です。さらにいうと、
 このことは何もワキにかぎったことではなく、すべての人間にとって当て
 はまること。どんな人間も、身体を持たずして生きることはできませんから。
・能の笛というのは、わざと音が出づらいようにつくられているんじゃないか
 と思うような購造になっています。しかし、だからこそ、稽古を積み重ねた
 結果いい音が鳴るようになります。同じことは身体という「道具」にも当て
 はまります。つまり、身体が完全でないからこそ、ワキとしての道、
 人としての道を歩んでいけるということです。・・ ≫
▼ 現代の「お道具」といえば、パソコン(スマートフォンを含む)とネット。
 今ではウェアラブルPCという道具と身体が一体化したものが出始めた。
その道とは、アプリであり、予め完成されている。その意味からして、「お能」
の世界は時代の流れの真逆。だからこそ、そこに、「あわい」の必要性が出る。
文化度が高いフランスのレジャーで、長期休暇は、リゾート地で長閑に、
時間を過ごすこと。ただ、ただボーッとするのが贅沢という。で、痴呆症が
多いというが、それも「あわい」であろう。ただヒタスラ心も身体も休める。
それが御隠居の仕事である。それには、その暇を楽しめる知識と余裕が必要。
・・・・・・
4336, 自己とつきあうということ −4
2013年01月29日(火)
  「自己の探究―自己とつきあうということ」和田 渡 (著)
 ギリシャ哲学の初めのころから、己について考えていた哲学者がいた。
この文明の世でも、「自分」について考えようとしない人が多い中、
2500年前に、このやっかいな自分について考えていた。
そのギリシャは、現在、国家危機の崖っぷち。
 * 古代の人間たちと自己の問題(ヘラクレイトスの驚きと戒め)
≪ 自己を問う試みは、ソクラテス以前の哲学者たちによってなされている。
 なかでも、その試みを自覚的に遂行したと考えられる人物の一人は、初期
ギリシアの哲学者ヘラクレイトス(前五〇〇頃)である。彼が残したとされる、
「わたしはわたし自身を探究した」(断片一〇一)という言葉の背後には、
探究の視線を外部の自然から自己自身へと移し、自己の内に広大な探究の
次元を見いだしたヘラクレイトスの、自己への驚きが見てとれる。
彼にとって、自己は問われるべきものとなった。彼は次のようにも述べた。
「自己を認識すること、健全な思慮を持つことは、万人に許されている」。
(断片二六) その短い言葉を通じて、われわれが自己への関心、配慮を
ばねにして自己への探究を開始する存在であることが端的に示されている。
しかし、それを裏返せば、われわれは通常、自己を問題として受けとめる
ことは少ないし、思慮を健全に保つことからも遠い存在だ、ということである。
よきことを考えて生きることよりも欲情にかられよからぬ方向へひっぱられて
いきやすいのが人間である。それゆえ、彼は自戒の言葉を口にしている。

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01月29日(水)
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