ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4241, 閑話小題 ーある居酒屋で
「脳と日本人 松岡正剛 茂木健一郎」 −読書日記
* 日本という方法
松岡: ぼくは、日本をヨーロッパ思想の規範の価値観だけで見るのじゃなくて、日本が日本を「方法としての日本」に
しようとしてきたことに関心があるんです。それを見ることが好きなのです。たとえばインドに生まれたブッダの仏教は、
中国をへて日本に伝来しましたね。中国の浄土教が日本に入ってくると、法然や親鶯らによって、かなり独創的な
日本浄土教というものになっています。空海の密教も、インドはむろん、中国にもあまりないものです。つまり、日本は、
中国にあったものを変えて日本化させてしまっている。再編集するのですね。それは禅もそうだし、屏風や庭園もそうです。
屏風は、中国ではほとんどが木です。日本は紙ですね。 日本という方法になっていくんですね。 たとえば、屏風は、
閉じてまた開くとか、季節になったら蔵から出してきて、終わったらまた蔵に戻すとか。ぼくの家もそうしていました。
掛け軸も、その場に合わせて掛け替える。ヨーロッパなどでは、いつ行っても同じ絵を飾っていますね。
えんえん百年間も同じ絵を飾っているという家庭もありますからね。セザンヌの絵でもお爺さんの肖像画でも、三年ぶりに
訪れたら掛け替えてあったということはほとんどないしね。 新しく購入した絵画を自慢したいというのは別ですけどね。
ところが、日本では、僕くが育った環境では、少なくとも季節ごとに変えています。 みんな、お金持ちじゃないから
繰り返して使いますけどね。そういうやり方をするわけです。また、禅宗は中国で生まれて発展しましたが、日本で広まり、
五山の禅宗文化になった。そこにはいろいろ付属して芽生えたものもある。細長い掛軸もそのひとつ、座敷で酒を飲むのも
そのひとつ。その代表的なものが、枯山水です。中国にもロックガーデンは沢山ありますが、枯山水はまったくありません。
枯山水は、水を使わずに岩や石や砂を配置しただけで、そこに山や水をあらわしている。水を感じたいから、あえて水を
抜いているんです。 枯山水の庭の前に、日本では池泉庭園というのをつくっています。毛越寺の庭園ですね。
そういうのがあったにもかかわらず、枯山水の庭をつくって岩や石や砂があるだけなのに、そこに水の流れや大きな世界を
観じようとした。つまり、感じたいものを方法論的にそこから抜いたのですね。 こういうことは、宗教改革のような
既存価値の打倒や分割とはいえないかもしれないけれど、とはいえそこには宗教感覚が生成していないともいえないんです。
水を感じたいがゆえに、あえて水をなくしてしまった。不在をもって、かえって存在感を表現する。
―
松岡は、何らかの情報を得て受けとめる方法のすべてを「編集」であると見て史書の編纂から日記、短歌、連歌などに
とどまらず政治・経済のシステムや、書くこと話すこと、生きることそのものまでを編集行為として捉え、
長年考察し続けてきた成果をもとに日本を日本ならしめている「日本的編集方法」を探っている。
ただ「主題」を求めようとするのではなく歴史に蓄積された「日本という方法」を発見している。
極東の島国に流れ込んだ、あらゆる文化を島国に合わせて再編成を長年かけてしてきたのが日本である。
21世紀こそ、このノウハウが世界に必要となるのではないか、という。分からないでもないが。
・・・・・・・・・
2771, 女の一生
2008年11月05日(水)
ある随想を読んでいたら、次のような内容があった。一人ひとりの人生を見つめると、誰も彼もが波乱に富んでいる。
短い文章の中に、一人の人生が垣間見れるようだ。「言葉には魂が宿る」ということである。
ーー
・・・十代の終わりには私は親もとをはなれ、働きながら自分で縫ったスーツを着て成人式に出席しました。
これが二十代のはじまりです。そして.「この人となら死んでもいい」と思える恋をしたものの、
「わしの目が黒いうちは、かまどの下の灰も、他人にはやりたくない」と彼の母親に言われ、
死ぬほど辛い失恋をしたのも二十代のことでした。
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11月05日(月)
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