ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3861, スポーツジムの景色 −4
以前から、おふくろには「東京の女には気をつけろ」とよくいわれていました。
見るともなしに見ると、どう考えても典型的な東京の女性。ベレー帽かぶって、その上にミニスカートです。
・ 以下は字数の関係で中間カット(2007年10月21日)・
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最終の学校時代に出会った人が最適の人と出会う確率が高いというから、彼は彼なりに最高の人と出会ったのだろう。
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2006年10月21日(土)
2027, 「私」のための現代思想 −14
おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・
ーこの章の一番のポイントは次の部分であるー
ある個人の「死」とは、<身体>に属する要素が存在しなくなることを指す。死によって、<身体>が消滅し、<身体>の属している
「声」も消失します。それでも<私>を構成する要素である「超越確実言明」は消滅しません。また構築されていた《私》も消滅しません。
ーー
何度も何度も、この部分を考えてみた。納得できるような、釈然としないような深い内容である。
《私》が死なないのは、ソクラテスの《私》がプラトンによって記録されて、永遠に生きていることをみても解ることだ。
《私》は消滅しないということが哲学的にみて正しいとすれば「いま生きている瞬間」を全てを丁寧に、そして人生そのものを、
あらためて考え直さなければならない。 {<私>と《私》は消滅しない}という言葉を「超越確実言明」としていれば、
過去の人生は変わっていた!「死んでしまえば、それまでよ!」を{超越確実言明」としてきたが、そうではないということだ。
ブログなどで自分を語り、公開する時代なら尚のこと顕わになる。その意味で、この本は難しい内容だが、根本から人生観を
考えさせられる。「私」のことだから、根本問題である。
<身体>が消滅しても、<私>と《私》は消滅しないというカルトみたいなことが論理的にもいえるとは・・・
もう一度、本当に納得できるものか振り返ってみたが、矛盾は無い。 <身体>も<私>も《私》を大事にしなくては!
ーー
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味 −?
ー 正しく死ぬ・正しく生きる ー
*<私>は「死」によっては消滅しない*
「《私》は、<他者>によって引き受けられている」<身体>が消滅しても、<私>は存在しつづける。決してカルトではない。
ある個人の「死」とは、<身体>に属する要素が存在しなくなることを指す。 死によって、<身体>が消滅し、<身体>の属している
「声」も消失します。しかしそれでも、<私>を構成する要素である「超越確実言明」は消滅しません。また、構築されていた《私》も
消滅しません。さらには、<声>によって共振することはできないものの、<他者>も消滅しません。
<身体>が無くなり、「声」への応答がなくなったことによって、<他者>は直接的に「糧」を得ようと
《私》や<私>に接近し、それによって、<他者>が共振を受け取ることができます。
一方、死によって発生するのは、「もはや『糧』を得ることのできない私」であり、「受益を放棄した私」です。
死んだ後に残るのは「<他者>によって引き受けることのない生」としての《私》と「超越確実言明」の束としての<私>。
*「死ねば楽になる」は正しいのか?*
「死ねば楽になる」は、「死ぬ」−>「辛さから逃れる」と変換できる。そこでの「辛さ」とは、束縛から逃れられないときに
<私>が発生する信号である。それは「私」が「逃れる物語」を遂行中であり、かつ、そこにおいて「自由が失われている」
ことを指している。「辛さ」とは、<私>において発生し、<私>に含まれる概念であるということです。
したがって、まず「どの物語が『辛さ』を発生させているのか」を考えるのが、論理的な思考であるはずです。
それがわかれば、それを放棄すればよいだけですが『生きること自体が辛い』という場合は、自ら死を選ぶことになっていまいます。
[<身体>の消滅]−>[辛さから逃れる]は正しくありません。なぜなら、[辛さ]とは<身体>に属する概念ではないからだ。
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10月21日(金)
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