ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3272, 裏読み日本経済 ー2
なかには、生まれてから、いちども顔をみず、名も知らなかったような親戚が続々と現れてくる。
叔母の従兄の細君の妹が嫁にいった先の義弟なんて連中だ。 あの安藤も、わしを叔父さんと呼んどるが、
その口だ。むろん、わしには一切合切みなたかるがままにしておいた」
「・・・・・・」
「ところがだ、それが、ちっともありがたがらんのだ。いや、ありがたがってもらいたくないが、恩を仇でかえす連中が多いのだな。
これをわしの不徳のいたすところなんて、ていさいのいいことをわしはいわん。かんがえてみると、はじめからただで人に
たかろうなどという気を起こす人間は、所詮それだけの人間なんだ、むろん、それはそれでよろしい。
そういう連中にかぎって、あまりものにならん。そいつらはたかっただけの勘定を、どこかでじぶんで支払うことになっとる
ようだが、それはわしの知ったことじゃない。ただ、よくよく見ていると、はじめわしが金をやり、面倒をみてやったことが、
かえうて害をなしておるのだね。世の中はこれで通ると甘くみる根性をうえつけたらしいのだな。
そうと知ってからは、わしは一切無意味な金は出さんことにした。人間は、自分のカだけで生きてゆくべきものだ」「・・・・・・」
損得をいえば、はした金をやって悪口をいわれん方がトクだよ。しかし、わしもこの年になれば、死んだあとで馬鹿者の悪口が
のこることより、この世にじぶんの養成した馬鹿者をのこすことの方がいやだ。
ーしたがって、わしは、わしにちかづく人間はだれでも、その人間の値打ちだけの待遇しかせんのだ」、『極悪人』
・・・・・・・・、
2007年03月11日(日)
2168, 池田晶子が亡くなった!ー 2
おはよう!♪? ヽ(´π`)ノ
先日、8年前に出版された『考える日々』の中古本をネットで買ったが、最近の本を読んでいるためか、一つピンとこない
部分があった! 哲学者も8年で大きく成長するようだ。彼女を偲んで、印象的な彼女の文章を幾つか書き出し考えてみる。
ーー
『人生のほんとう』 ー人の死は悲しいのかー
・・・親しい人が死ぬと、当然「悲しい」という感情が起こります。
ただ、なぜ悲しいのかなと少し距離を置いて考えてみると、第一に「もう会えない」という思いがあります。
その次がたぶん、「かわいそう、気の毒だ」「死んだひとは悲しいんじゃないか」そういう思いもありますね。
でも、これはよく考えてみると、わからないんですよ。ひょっとしたらそれも思い込みではないかと考えることもできます。
死んだ人が悲しいと思っているかどうかはわからない。死ぬのが本人にとって悲しいことなのかどうか、
われわれにはあくまでもわからないんですよ。だって、われわれは死んだことがないわけですから。
(略)けれど、たいていは、「もう会えない」という感情のほうが、悲しみの内容としては強いのでしょう。
でも、その「もう会えない」とはどういうことかと考えてみると、裏から言えば、会えたこと自体が、
そもそも奇跡的なことだったと気がつくことになる。つまり、なぜ存在するのかわからない宇宙に、
なぜかわれわれは存在していて、なぜだかわからないけれども、その人と出会ってしまったわけです。
これはすごく不思議で、これ自体が奇跡的なことだったと気がつくと、悲しんでばかりでもなくなる。
驚きとともに、感謝にも似た感情も起こってきますね。また、会えたこと自体が奇跡ならば、なぜまた会えないことがあるのか、
という考え方もできますね。さきほど「無というものはない」といいましたが、いなくなるということは、実は無がないかぎり
「ない」のですから、いなくなるということ、無くなるということはないともいえる。
おそらくそれが、われわれがなぜだか出会ってしまったという奇跡の意味でしょう。 「一期一会は存在の構造です」
ーー
解)昨年末に義母が亡くなった時に悲しんでいる家内に、{亡くなったとしても、自分の生きてきた過去が消えるわけでなく、
母親が生きているより身近な存在になっただけ。「いま・現在のここ」で母親を思い出せば、会っていると同じではないか。
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03月11日(木)
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