ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3121,金(きん)について
それでも、<私>を構成する要素である「超越確実言明」は消滅しません。また、構築されていた《私》も消滅しません。
    ーー    
 何度も何度も、この部分を考えてみた。納得できるような、釈然としないような深い内容である。
《私》が死なないのは、ソクラテスの《私》がプラトンによって記録されて、永遠に生きていることをみても解ることだ。
《私》は消滅しないということが哲学的にみて正しいとすれば「いま生きている瞬間」を全てを丁寧に、そして人生そのものを、
あらためて考え直さなければならない。 {<私>と《私》は消滅しない}という言葉を「超越確実言明」としていれば、
過去の人生は変わっていた!「死んでしまえば、それまでよ!」を{超越確実言明」としてきたが、そうではないということだ。 
ブログなどで自分を語り、公開する時代なら尚のこと顕わになる。その意味で、この本は難しい内容だが、根本から人生観を
考えさせられる。「私」のことだから、根本問題である。
<身体>が消滅しても、<私>と《私》は消滅しないというカルトみたいなことが論理的にもいえるとは・・・
もう一度、本当に納得できるものか振り返ってみたが、矛盾は無い。 <身体>も<私>も《私》を大事にしなくては!
ーー
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味 −?
    ー 正しく死ぬ・正しく生きる ー
    
 *<私>は「死」によっては消滅しない*
「《私》は、<他者>によって引き受けられている」<身体>が消滅しても、<私>は存在しつづける。決してカルトではない。
ある個人の「死」とは、<身体>に属する要素が存在しなくなることを指す。
死によって、<身体>が消滅し、<身体>の属している「声」も消失します。
しかしそれでも、<私>を構成する要素である「超越確実言明」は消滅しません。また、構築されていた《私》も消滅しません。
さらには、<声>によって共振することはできないものの、<他者>も消滅しません。
   <身体>が無くなり、「声」への応答がなくなったことによって、<他者>は直接的に「糧」を得ようと
   《私》や<私>に接近し、それによって、<他者>が共振を受け取ることができます。
   一方、死によって発生するのは、「もはや『糧』を得ることのできない私」であり、「受益を放棄した私」です。
   死んだ後に残るのは「<他者>によって引き受けることのない生」としての《私》と「超越確実言明」の束としての<私>。

 *「死ねば楽になる」は正しいのか?*
「死ねば楽になる」は、「死ぬ」−>「辛さから逃れる」と変換できる。
そこでの「辛さ」とは、束縛から逃れられないときに<私>が発生する信号である。
それは「私」が「逃れる物語」を遂行中であり、かつ、そこにおいて「自由が失われている」
ことを指している。「辛さ」とは、<私>において発生し、<私>に含まれる概念であるということです。
したがって、まず「どの物語が『辛さ』を発生させているのか」を考えるのが、論理的な思考であるはずです。
それがわかれば、それを放棄すればよいだけですが『生きること自体が辛い』という場合は、自ら死を選ぶことになっていまいます。
[<身体>の消滅]−>[辛さから逃れる]は正しくありません。なぜなら、[辛さ]とは<身体>に属する概念ではないからだ。
但し、[<身体>の消滅]→[痛みから逃れる] は、可能です。 痛みは身体が発している信号なので、<身体>が消滅する
ことによって発生しなくなります。[<私>の消滅]−>[辛さから逃れる]という図式を考えなくてはなりません。
これが[死ねば楽になる]という表現の意味です。 末期ガンの患者が望むそれ?
 <私>の思考は、すべて「超越確実言明」という基盤を支えとして、その上に構築されています。
そして「超越確実言明の束」とは<私>そのものです。それに、論理は自己言及できないということを考え合わせると、
 <私>という基盤の上に構築された論理が、<私>を否定するという構造は、矛盾していることになる。そして、

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10月21日(水)
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