ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2797.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・6
自分で自分を癒すとは、どういうことであろうか。 癒すためには癒されるべき傷がなくてはならない。
傷とは何であろうか。傷ついているのは自分である。 そう思っているのは誰だろうか。「自己治癒」という、
いっけん明瞭なようなこの概念は、日常レベルの予測をはるかに超えた、広がりと奥行きと複雑さを持っている。
それは、一般的な問いのある種の逆転によって垣間見られる。
「私とは何か」 −>「何が私であるのか」
「心とは何であるか」−>「何が心であるか」
「心はどこにあるか」ではない。「何が心であるか」である。
「どこに」は、既に三次元空間内にそれがある存在していることを前提としている。
脳も心もこの三次元空間内の物体である。しかし、心の痛みは、その痛みはそのものは、物理的な存在ではない。
本来、物理的な存在でないものを、物理的な存在であるように表象する、もしくは表象させるそのような命名が、
多くの誤解を生じさせている。トラウマ「心的外傷」、その視覚的イメージが、何がしかの塊り状のものが、
傷口を空けているという光景である。 心的外傷、すなわち心が外から受ける傷である。
物理的でないものの、「外」、その「内」とは、どのような区分であろうか。「心の外」とは、どこを指すのであろうか。
「心」に外と内があるというのは、これも長い我われの錯誤は、「私」が身体であるという一方の強力な錯誤と
手を組んで、「私の心は体の内側に存在する」、その主観である。
そしてそれは客観としての世界もしくは他者とは関係しないか対立する、という錯誤の世界像として定着する。
したがって、「私の心に傷を与えるのは、世界もしくは他者である」。
トラウマ理論とは、あるいは主客二元の世界観に典型的な、短絡的解釈ではないだろうか。
幼少期に虐めを受けたから性格はこうなった、という遠い原因から、あなたにそういわれたから私は傷ついた、
という近い原因まで、そこに共通しているのは、「心の外」に、「傷の原因」を求められるという、
それ自体が一種病的な捉え方である。 なぜなら、「心」は身体のうちに存在していないからである。
「私」もまたこの身体ではないからだ。すると傷ついているのは誰なのか。それは「誰」の傷なのか。
したがって、私は私であり、私の心は私の身体の中にあるという錯誤の世界像を思い込んでいる人だけが、
各種のセラピーグッズやセラピーによって「癒される」。癒されたと思いこむことができる。
心の傷は外から与えられるものであり、その傷は外からの癒しによって癒されるものと思い込んでいるからだ。
おそらく、「本当の傷」を負った人々は、そのような単純な主客二元の処方せんでは治癒できず、
「本当」のかの問いに直面することになる。 すなわち傷ついているのは誰なのか。
−−−
心に外傷というのもオカシナモノだが、心が痛むというのはあって当然ではないか。
\(^▽^*)バイ!
・・・・・・・
2005年12月01日(木)
1703, 政府系金融機関の統合
(~O~)ふぁ
政府系金融機関が三年後に統合されることになった。
郵政民営化にともなう郵貯の出口の縮小処置である。
悪く言えば、中小金融機関への貢ぎもの(中小企業の債権)である。
ヽ(ヽ゜)ヒイィィィ!!!
思いきった人員整理も断行されるから、政府系金融機関の職員は仕事にはならない。
統合は地方の切捨てでもある。 (@_@;)
戦後60年、地方への過剰投資が目にあまったことも事実。
四国への三本の大橋の建設は、この象徴である。
(=_=;)
糖尿体質の現在の地方には、過激な手術になるが、グローバルの時代に中途半端な体質変換では、
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12月01日(月)
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