ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2785, 恐怖指数
    もしも自分が自分として完結しているば、そこに語りかけるという行為は発生しないはずである。語りかけるとは、
    問い尋ねる、確認する、疑念を発する、同意を求める等、本来的に他者へと向けられる行為である。

しかし、語りかけているそこには、目に見える他者など、存在していない。
すると、そこに語りかけているのは誰だろうか。なるほど「自分に」だと言うしかない。
だからこそ、他者として、語りかけ語りかけられている自分とは、自分にとって自分なのだろうか、
他者なのだろうかという問いが、いよいよ悩ましいものとして立ち上がることになる。
自分である、他者であるということは、自分であるという正にそのことにおいて、
いかにしても自明のことではあり得ないのだが、この場面において人は、目に見えるもののみ信じすぎる。

    他者とは目に見えるその個人であり、自分もまた目に見えるこの個人であると思い込んでいるのである。
    そして、個人と個人はしょせん個人である。ここで個人は孤独であると嘆くことにもなるが、じつは人は
    孤独であることなどできはしないのだ。厳密をきするほど、自他の境は溶解し、何が自分であり、
    何が他者であるとは言えなくなるのである。この奇妙で当たり前の事実に気づくのに、内省する、
    自己観察するという習慣以外ないだろう。個人主義は科学的世界観なしにはあり得なかった。
    しかし、それとてこの数百年のことである。それ以前は、われわれにとって自分はそれほど自明のことでなかった。
    自分であるということは、そのことだけで、何か神々や霊魂めいたものと重なっていたことを知っていたからである。
    
 われわれ日常とは、心の日常である。あらためて思うと、何と当たり前のことである。
 そして、心は「人間」ではない。愛着や憎悪や嫉妬、それ自体が「人間である」とは
 無意味であろう。「心のはたらき」は、人間ではない。それは「何」の働きなのだろうか。
 
 目に見える「人間」を認めないとき、逆に関係性そのものとしてとしかあり得ない世界の
 ありようが見えてくる。そのことによって、各人の個性が個性でなくなるわけではない。
 個性すなわち、性格の現れとか感情の訪れなどは、そもそもが「個人」の出来事ではない。
 いや、個人などというものは、この世界のどこにもない。
  まずは、そう思ってみてみたらどうか、世界の相貌は劇的に変わるはずである。
 そうすると、関係性としてしかあり得ないそのような世界で、孤独はどのようにして可能だろうか。
 
     言葉は個人の発明ではなく、個人の所有でもない。言葉は個人のものではない。
     しかし、人は多く言葉は個人のものであり、言葉を話すのが自分であると思っている。
     しかし、もしも言葉を話すのが自分であるなら、なぜ他者と話す言葉との間に、
     「会話」が成立するのだろうか。あの人は話が合わないというためには、あらかじめ話の意味が
     理解されていなければならない。理解されている言葉の意味は、自他の区別より先に存在するのである。
     ある言葉を選択し、そのように使用する、そこに各人の個性が現れるのであって、
     その逆ではない。「人間の側」こそが、言葉の個性のために使われる「口」なのだ。
 (以下、字数の関係上、カットー2008年11月19日)
 (*^○^*)ノ ホンジャ!また

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2005年11月19日(土)
1691, ザ・マインドマップ−4
ーマインドマップのメリットといえば、
(字数の関係でカットー2007年11月19日)
                  〆(∀`*)

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2004年11月19日(金)
1326, 海外旅行ー履歴  

今までいった旅行履歴である。あらためて、よく行ったと自分でも感心する。
60歳まで50回という目標は無理であるが、年二回のペースなら63歳に達成する。
この不況の中、年二回のペースを守れるかどうかだが?70歳まで、年二回のペースを守ると65回になる。

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11月19日(水)
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