ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2783, 外は広く、内は深い
彼らは何ゆえに孤独を恐れているのだろうか?孤独であるということは、文字通りには独りであること、独りで自分であることである。
これは、これ以上疑いのない現事実である。それが耐えられないということが事実なら、自分であるということの、
何でそれほど耐え切れないことなのであろうか。
自分が自分であることを自分で証明することは不可能であるか、無意味である。
そこで彼らは、その証明のため他人や社会といった外的契機を求めることになる。
しかし、社会や他人によって証明されたと思われるような自分は、まさにその理由によって、
他人や社会と代替えのきくものということになる。あるいは、他人や社会によってしか、自分であることが出来ない。
自分の何たることか自分によって証明できないという事実に変わりはない。孤独は空虚なままである。
おそらく、孤独を恐れているのは、この「空虚である」ということ。
そのような他人や社会によっての空虚は、実は当たり前のことであって、対社会的な、文字通りの「形式」にすぎないからである。
誰の某という「姓名」、どこそこの社員という「肩書」、それ以上でないのは、当たり前のことである。
「私は誰の某である」と発語する時の「私」、その「私」は何であるか、これが、自我の向こうの自己への問いである。
人が、自分を自我と同一とするとき、空虚であるか、絶えられないと感じるのは、
自我というものがその本性上、世界と自分とを対立するか、別のものと捉えるための形式である。
世界、すなわち、さまざまな人格としての他者たち、変転してやまない諸現象、
あるいは雄大なる天地と自然、そういった世界の内実としてのすべてを、「自分ではないもの」「自分とは別もの」
とすることによって、自分であるような自我は、したがって、「孤独である」。自分以外「何もない」。
その本性が否定的であるところの自我としてのみ居ることは、苦しいことに違いはない。内実のない自我は、
内実を得ようと世界に関わるが、しかしその関わるということが、やはり世界を否定するという仕方でしかあり得ないのである。
関わりたいが関われないという、若者たちの矛盾したありようは、自我という矛盾した存在のありようを、そのまま示している。
自我と世界とを対立するものと捉えるのは、近代の特有の世界観である。この世界観で、自然科学は進歩を遂げたが、
もともと目には見えない捉えがたい自己、こちらの側を探索する作業は怠られたようである。
自分を自我として、自我をこの肉体とすることで人は納得しようとしたが、納得できない綻びが、彼方此方に生じてきている。
バイー♪(^_^)/~~
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2005年11月17日(木)
1689, 今日という日は誰もが素人だ!
「今日という日は誰もが素人だ!」三浦綾子の本にあった言葉だ。つくづく良い言葉と思う。
~~■P_o(δ-δo) COFFEE
誰も今日という日は初めてで、何に出会うかもしれない日である。
その気持ちを忘れてしまうから、素人の持っている新鮮さを失ってしまう。
茶道に『一期一会』という言葉がある。 その言葉の真髄に ヽ(δ◇δ)ノ エーーー!
「今日(今)という日(瞬間)は二度とない、誰も初めての経験であり、最後の経験になる」がある。
それを意識をすれば、全ての出来事に「驚き」が出てくるはずである。生きるということは驚きであり、
感動であり、感激である。その気持ちは、素人だからこそ生まれてくる。 Σ(δOδ*)ハッ
今日という日は、昨日までの自分の積み重ねがあったからこそ存在することも事実である。
今日という日に素人になるには、昨日の玄人であるほど良いのも事実である。
(*δ-δ)ノ彡☆゜・。・゜☆ バイバイ
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2004年11月17日(水)
1324, ライオンの柵内に男が侵入
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11月17日(月)
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