ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2777, 仮説思考 −4
やがて死ぬ、どうせ死ぬとは言えなくなる。なぜなら死は無いのだから、人生の意味はまるっきし変わってくる。
理屈はそうかもしれないが、でも毎日人は死ぬではないか、と反論するでしょう。
確かに毎日、人は死んでいきます。 でも、死ぬのは常に他人です。 だれも自分が死んだことは無い。
死は他人の死しか経験できない。 それが現実である。これに気づくと非常に不思議な気になる。

   生きる死ぬ、人は便宜的にそう言っているに過ぎないらしいと気づく。 つまり、動いているものを生と呼び、
   動かないものを死と名づけているに過ぎないと。 生き死には言語的な名づけ、つまり言葉に過ぎない。実体ではない。
   無としての死なんてこの世に何処にも存在していない。 一種のカラクリみたいなもの<存在のカラクリ>と私は呼んでいる。
   無は存在しないかぎり、すべては存在しているわけです。 存在しか存在できないという事実に気づくわけです。
   例えば論理的に死なないということに気がついたら、じゃあ死なない自分とは誰なのか。
   ふだん自分であると思っている、その自分は実は自分ではないんじゃないか。そういう問いが現れてきます。

世の中ほとんどが生死のカラクリにだまされて動いている。 例えば脳死の問題。
あれは議論として不可能なことを議論している。死がどこからかということを決められると思っている。
しかし、無いものをどうして決められるのですか。また時間の概念も変わります。死に向かって直線的に流れると、
漠然と思っているが、だけど、その死が存在しないとなると、時間はどう流れるのか。 
死に向かって生きているわけではないんです。 「生きる」という意味も変わってきます。
「死というものがわからない」ということがわかる限り、生というものもわからないわけです。
つまり、生死というのは現象に対する相対的な名づけに過ぎないと気づきます。
ーーー
    内容はダンダン面白くなっているが、字数の関係でここで切る。
    エピクロスは、「人が生きているかぎり死は存在しないし、死が存在するときには人は存在しない」と看破した。
    言葉を持った人間が死という言葉を持ったために、死という言葉の影に脅えているに過ぎないということを
    よくよく納得しないと、生きかたを間違ってしまう。    
    でも、言葉でわかったつもりでも、「生きているうち、死んでしまえば、それまでよ!」と思ってしまうから困ったものだ。
    しかし、死ぬという言葉自体が生きている人間が死体をみて、いや抜け殻を見て名づけた言葉である。
    しかし仏教では「生老病死」というんじゃないか?でも、あれ宗教じゃないか! いや元々は宗教ではなかった。
    死という字がよい、一の下に夕ヒである。夕陽が地平線の下に消えるのが人生の終わり!何ともロマンッチクである。
    この辺に答えがあるのじゃないか?いや、一は生きている方が勝手に思っていること?当人は、その線の一は無い!のか?        
        空即是色、  色(!)即是空( )
       (0) (一)                  
              (・)(・)
              オッパイにしか見えないけど!              
              目が点?
              自分のこと?ー( )が自他の境で、点が真我
              それとも生と死?ー点が生で、( )が世界
              その程度のもの?生死とは。
            (人・・)(・・人)い〜みな〜い〜ん!
              元々あるわけ無いんじゃ・・
    まあまあ ( ̄▽ ̄)■]~~~  珈琲TIME♪

・・・・・・・・・
2005年11月11日(金)
1683, ザ・マインドマップ−1
               −読書日記
            

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11月11日(火)
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