ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2775,  仮説思考 −2
約1万5千年前、時代は氷河期であった。その時期、氷河を前に旧石器人は洞窟に引きこもるしかなかった。
そこでやることはなく、絵を描いたのです。絵は洞窟の奥ほど古く、出口ほど新しく次第にリアルになっていった。
(数千年かけて書き継がれていた)これはなかなか良いとか、こう描けば良いとかといったコミュニケーションが生まれていった。
彼らは絵を描くという行為によって一歩ずつ人間に近づいていった。
その過程で、イマジネーションや観察力、知識、理解力、コミュニケーションが、当時の旧石器人に芽生えた。
つまり芸術がサルをヒトにした。それがアルタミラの壁画の持っている意味です。サルにとって、進化するための教養が壁画だった。

芸術を料理にたとえてみる。つくり手が材料から、美味しい料理を作ろうというイマジネーションが、
他人に食べてもらおうという、コミュニケーションになります。
芸術とは作り手が、自分のイマジネーションを、何とかして他人に伝えたいと思う心です。
「俺の叫びを聞いてくれ」「私の歌を聴いてくれ」と思うのが芸術なのです。
私はこの芸術的発想が人類の発生と同時に存在していながら、こうした考えが弱まる時代は非常に危険だと思います。 
だからこそ、芸術がサルを人間に引っ張り出したという歴史を考えてみる必要があります。
相手が伝えようとしていることに対して、まずは相手の話を聞く。こんなことをしたらどうなるのだろう、と考えてみる。
たったこれだけのことがこの時代にどれだけ大切なことか。この発想が、教養という考え方の柱になると思っている。
−−
以上だが、現代の教養は書物はさることながら、インターネットとブログという手段を使いきれるかどうかが、
その人の教養度を大きく左右するだろう。
                      \(^▽^*)バイ! 
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2005年11月09日(水)
1681, うそつき−4

「うそつき」の話になると、いくらでも面白い話が思いつく。筒井康隆の『嘘と法螺』という随想に、子供の嘘がある。
ーある人が、下駄を片方なくして帰ってきた子を叱った。するとその子は、泥棒が持って逃げたのだと言い訳をした。
泥棒が持って逃げるのをみて、どうしてお巡りさん言わなかったのかと訊ねると、子供は、下駄を持って逃げた泥棒は、
実はお巡りさんだという。 お巡りさんが下駄の片方を持って逃げても、何の役にもたたないだろうというと、
そのお巡りさん片足だったという。
ーこのような話だったと記憶しているが、こうなると瞬間芸としての子供の創作力に感心をしてしまう。ー
次の『嘘』についての話も面白い。ー昔、法螺話をする男がいて、村人からも面白いので好かれていた。
その男は毎朝、村から出て行き夕方になると帰ってきて、仕事を終えた村の働き手が仕事を終えた後に、
彼が今日見たという話を楽しみに聞いていた。ある日のこと『今日は何をみてきたか教えてくれ』というので、
その男は次の話をしたという。「森のなかで笛を吹いている牧神をみたよ。その音につれて、小さな妖精が、踊っていた」
『もっと話してくれ、ほかに何をみた?』「海岸にいってみると、波うちぎわで人魚が金の櫛で髪をとかしていたよ」
ところがある日、海岸に行くと人魚が金の櫛で髪をとかしていた。
そして、その後歩き続けて、森に行くと、牧神が笛を吹いて妖精たちが踊っていた。
しかし、その夜、帰ってきて村人に『今日も話して欲しい、何があったんだ』ときくと、
彼は何もないような顔をして、「きょうは何も見なかったよ!」
 ーー
見てきたような嘘だから、男にとってよいのであって、現実なら面白くも可笑しくもない、ということだ。
嘘といえば、化粧も、動物の擬態も、政治家の公約もある。

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2004年11月09日(火)
1316, まさか、地震が地元で!ー12

昨日の月曜日、ホテルの今週予約が如何なっているのか、実のところ心配であった。
新幹線と在来線の不通の事態なら、普段の客数の五分の一か、十分の一である。
実際、下越の観光ホテル・旅館でさえも殆んどがキャンセルである。

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11月09日(日)
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