ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2774, 仮説思考 −1
  そもそも考えることの始まりは、自分があることや生命の不思議を知りたいということであって、
  それをどうこうしたいということではありません。考えてわかったところで何も変わりません。
  自分が生きて死ぬことも、自分が自分であることも何も変わっていません。
  だから考えてどうなるかと言われても、どうにもならないということです。けれども、ひとつ決定的に違うことがあります。   
  {自分が生きて死ぬということがどういうことか、ということがハッキリ自覚できるということです。
   この日常の不思議さを自覚しながら生きるということは、納得と確信を手に入れることができるのです。
   そうすると、生きる姿勢が全く変わります。 当たり前の日常を自覚的に生きるのとそうでないのとでは、
   全く構えが逆になります。つまり、強く生きられる。そのことが、考えて何の得になるのかと問われれば、
   あえて得の部分だという答えです。 無用の用という言い方における、用ですね。}
   ーー
 「考えるとはどういうことか 」の抜粋は次回も続くが、字数の関係上、まずは以上のことから考察してみよう
 「日常の当たり前のこと、すなわち生死など人生のことや、宇宙の不思議さを自覚しながら生きると、
  納得と確信を手に入れることができる。  そうすると生きる姿勢が変わり、構えが変わってくる。
  決して、考えることは無用の用ではない」という論は説得力がある。
 「よく考えることは、よく生きることと同じである」のは、よく考えるということは、人生の構え(姿勢)
  が変わってくるということになる。先日、ネアンデルタール人と、クロマニョン人の混血人の骨が発見された
  という ニュースの中に、なぜクロマニョン人が取って代わったかのか?という疑問に、言葉系ー考えが上だった
  という研究結果だった、とあった。
                                                         \(^▽^*)バイ!
 ・・・・・・・・
 2005年11月08日(火)
1680, 「自薦エッセイ集 魂の光景」−4
   ー「メタモルフォーゼ」ー A
     <意識の変容>

 一万年続いていた農耕社会の重心が、工業化社会から情報化社会に移動しようとしている現在、
狩猟社会の本能が再び目覚めようとしている?のか。
北極圏のインディアンに残っている狩猟社会の個人主義は、農業社会が作りあげた差別社会を否定する。
メタモルフォーゼは、情報化社会になればなるほど問われることになるだろう。
以下は「メタモルフォーゼ」ー<意識の変容>の中の文章の抜粋である。
 ーーー
直立歩行を始めてサル類から分岐した人類の先祖たちは、死肉あさりという屈辱的な低い生態的地位を経た後、
大よそ20万年前から狩猟生活を始め、平等な個人同士の対等な関係を基本とする小グループを形づくってきた。
文化人類学者の原ひろ子は「老若男女それぞれが、自分が主だと思っている。
命令口調でものを言う人間や、忠告めいたことを言う人間を極度に嫌い、馬鹿にする。
酋長といった部族全体を統率するリーダーはいない」と報告している。
彼女は「ヘアー・インディアンとその世界」という著で、さらに狩猟民族の`個人主義’について示唆を多くしている。
特に興味をおぼえたのは、彼らの生活が 「働く」「遊ぶ」「休む」の三つにわけられ、
そのうち「休む」が最も重要と考えられている、ということだ。
「休む」とは無為に寝転がっているということではなく、各人がそれぞれの自分だけの守護霊(部族と家族とも共通でない)
と相対する時間のことである。他人との関係からはなれて、ひとり静かに自分自身と、つまり自分の無意識と対話するのだが、
守護霊は雪の山野の親しい生物から選ばれるのだから、それは自然の声でもあろう。
そんな平等な個人を基本とする生き方が、農耕時代に入って、身分制社会の不平等生活へと一変したことは事実だ。

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11月08日(土)
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