ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2748,  ソロスは警告する −1
こうしたよろこびが宇宙の中でどれほどの意味を持つかはわからない。
パスカルに言わせればみな「気散じ」の中に入れられてしまうかも知れない。

 しかし、人間は弱く、だれもが死や無限の宇宙の恐怖に直面してパスカルのように遁世できるわけでもない。
思索を使命とする人にはそういう生きかたがふさわしいのであろうが、ふつうの人間としては、
どの側面からでもこころのよろこびを求めて行くのが自然であり、素直でもある。
真にこころをよろこぼすものに一身を投げかけてこれを深めて行くとき、そこに時空を超えたものを、瞬間的にでも
畏敬の念をもって垣間みることもあるだろう。これに支えられて人は時々「我を忘れる」ことも許されるはずだと思う。
生にはほとんど必然的に苦しみが伴うが、これを乗り越えるためにも、人間には時折「自己対自己」の世界の息ぐるしさ
から解放されて、野の花のように素朴に天を仰いで、ただ立っている、というよろこびと安らぎが必要らしい。
それは植物や他の動物と同様に、人間もまた大自然の中に「生かされている」からなのだろう。
こころのよろこびのあるかぎり人は存続するだろう。たとえ廃嘘の中からでも新しい生活と文化を築いて行くことだろう。

 生命の流れの上に浮かぶ「うたかた」にすぎなくても、ちょうど大海原を航海する船と船とがすれちがうとき、
互いに挨拶のしらべを交わすように、人間も生きているあいだ、様ざまな人と出会い、互いにこころのよろこびをわかち合い、
しかもあとから来る者にこれを伝えて行くように出来ているのではなかろうか。じつはこのことこそ真の「愛」というもので、
それがこころの旅のゆたかさにとっていちばん大切な要素だと思うのだが。
あまり大切なことは、ことばで多く語るべきことではないように思われる。
それでこれはヒトのこころの旅がかなでる音楽の余韻のようなものにとどめておくことにしたい。

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2006年10月13日(金)
2019, 「私」のための現代思想  −11
    (。^0^。)ノ オッ (*^○^*)ノ ハ〜 ヨウ

我われは顔を露出することによって呼びかけている。多くの場合、「顔」を合わせることが「呼びかけ」になる。
「呼びかけ」は、常に同時に発生するが「先に呼びかけられた」と感じる奇妙な性質を人は持っている。
「自分の居場所がない」ということに人は非常に敏感である。居場所は、他者の存在によって支えられている。
《私》を支えているのが<他者>だから、<他者>が存在しなくなれば、《私》の存在そのものも危うくなります。
    <他者>の「呼びかけ」に応答し、その存在を望むことが、すなわち「<他者>をもてなす」ということです。
    そしてこの他者をもてなすことが、すなわち「《私》の居場所をつくる」ということであり、それは《私》の
    存在を確かなものにする」ということ、そのものです。それがお互いにとって「ともに生きる」ということです。
ーー
第四章「私」にとって「他者」とは何か  −B
    =「ともに生きる」ということ=
 −なぜ人は顔を露出するのかー
<他者>が《私》に呼びかけるということは、音声による呼びかけだけを指しているだけではありません。
実は、私たちは顔を露出することによって呼びかけています。「呼びかけ」は一方からのみ行うものではありません。
つまり、<他者>が《私》に呼びかけるということは、《私》が<他者>に対して「呼びかけ」を行ったことの帰結です。
そして多くの場合「顔」によって行われます。ここでいう「呼びかけ」は、常に同時に発生し、両者とも常に
「先に呼びかけられた」と感じる奇妙な性質を持っています。 このような現象を、私たちが「顔を露出し、
顔によって呼びかけている」ことによって発生します。人は常に「存在している」ことを前提として生きています。
「ともに生きる」こと、そして「呼びかけ」「呼びかけられる」ことを前提として、人は顔を露出しているのです。

(字数の関係上カット2008ねん10月13日)
  
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2005年10月13日(木)

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