ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2665, 人生は儚いのか?
その後のポンペイウスやカエサルが軍団を自由に動かせ土壌を作ったことになる。
その後暫くは平穏な時代を過ごしたローマだが、市民権問題にことを発した
同盟者戦役がおこる。これは、内乱というにふさわしい戦役であった。
しかしこの間に小アジアの勢力であるポントスがローマに反旗を翻し、ローマ領に侵攻。
同盟者戦役を和解で切り抜けたローマは、この戦役で功のあったスッラに
オリエント戦線を担当させようとしたが、マリウスがこれに抵抗した。
スッラはイタリアを抜け出し編成中であった軍団を擁してローマに進軍。
これを制圧。武装クーデターによってローマを制したスッラだが、
彼は私利におぼれることなくオリエント戦線の重要さからギリシャに入る。
しかしローマの後をたくしたキンナがまたもや反旗を翻しマリウスは復権し、
ローマに戻った彼はスッラ派の人々を片っ端から処刑をする。
その直後にマリウスは病死。あとをついだキンナは小アジアにローマ正規軍を送る。
一方スッラはギリシャで侵攻してくるポントス軍を数度に渡って破り、
陸路小アジアに進撃し、ローマ正規軍を打ち破る。
このようにしてスッラは小アジアの安定とギリシャの制圧を完成。
キンナはスッラとの決戦をギリシャで臨み、2年の戦いの後にスッラの勝利に終わる。
そして今度はスッラがマリウス派勢力を処刑していく。
当然マリウスの甥でありキンナの娘の夫であったカエサルも目標にされます。
当時カエサル18歳。しかし若年で何ひとつ政治活動をしていなかったことを理由に
度重なる助命嘆願にスッラも仕方なく承知する。この時、スッラは ”君達にはわからないのかね。
あの若者の中には100人ものマリウスがいることを”といったという。
スッラの条件はキンナの娘との離婚だったが、カエサルはこれを拒否。
カエサルはイタリア中を逃げまわり、ついには小アジアにまで落ち延びる。
スッラは様々な改革をしたが、元老院の強化こそがローマを栄えさせると考えて、
それに沿った政策をとる。
後年2流の家系であったカエサルが、妻の血筋の庶民派として地位を確保していったのは当然のこと。
名門貴族の出身ならば元老院への道は開かれていたが、
平民貴族や平民出身者にとっては護民官から元老院に出馬が道であった。
ローマの重職は元元老院議員であることが暗黙の了解であった。
しかし次第に大きくなる護民官の力がローマの弱体化を招いたと考えるスッラは、これを押さえ込んだ。
スッラは私利私欲の少ない人で、
58歳で引退後は別荘で暮らしながら死んでいく。
i (ω・`) bai
・・・・・・・
2005年07月22日(金)
1571, 五稜郭
幕末の混乱期、軍艦・開陽丸を駆って官軍と戦い蝦夷地に共和国を樹立しようとした男たちがいた。
この時期、オランダに派遣されていた榎本は帰国、同じ幕臣として勝海舟の幕引きに反発。
新政府に不満を持つ幕臣と新撰組の土方と合流して未開の地・函館の五稜郭に共和国を樹立する。
そこで、官軍の参謀に就任した薩摩の黒田了介(後の内閣総理大臣・黒田清隆)率いる軍と熾烈な戦いを繰り広げる。
その戦いの中で、榎本の人柄を知った黒田は全面降伏を勧め彼の命を救う。しかし土方など幕府方の残党は殆んど
ここで最期を遂げる。やがて刑期を終えた榎本は新政府のロシア交渉特使として活躍する。
阿部公房が「五稜郭」という小説で、榎本武楊が政治的に江戸幕府の残党を纏めて整理する
役割になってしまった矛盾を書いている。 学生時代に読んで、その複雑多層の立場を初めて知った。
攘夷か開国か、尊王か佐幕か倒幕か、公武合体か。それらの混沌とした中で維新の歴史は作られていったが、
その中で榎本武楊の果たした役割は、結果として皮肉な結果をもたらした。
阿倍公房の小説は、函館の五稜郭で負けた幕府軍の囚人300人が脱走して、厚岸(あっけし)の海岸から上陸、
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07月22日(火)
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