ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2625, いのち楽しみ給え −2
「私は何をすることができるか」の「形而上学」は事物の本質、
存在の根本原理を思惟や直観によって研究する学問であるが、
ーアリストテレスにおいては存在一般を考察する存在論、また超越的なものを探究する学問であった。
ーカントは純粋理性からの認識論をめざした。
ーヘーゲルは反弁証法的思考を形而上学的と呼んだ。
我々の住む世界の特徴は、空間(三次元)と時間(一次元)から成り立っているが、
その「空間とは、時間とは、そもそも何ぞや」という疑問から、その問いに対する答えを
探そうとする。そこでは信仰にすりかえたり、権威にすりかえることは許されない。
哲学といえば、さきほど述べた形而上学には二つの基本課題がある。
・「存在するものは何か」
・「もし何かを知ることができるとしたら、それはどのようにして可能か」である。
「存在論」と「認識論」である。
この何が存在し、何を知ることができるかという課題は哲学で探求される問題の大前提である。
哲学を芸術と宗教と科学の違いから見てみると
ー宗教は理より信仰がまずあり、宗教心を育てることに重きを置く。
ー芸術は哲学とものごとの底流にある真実をもとめ、人間を理解しようとするが、
その手段が絵画や音楽などの作品を通して直接的な感にうったえる。
ー科学もしかりである。真実を追究するが、実験や観察によって答えが出せる問題に限られる。
物質的な問題が主になる。
フォイエルバッハではないが、
「宗教にとっては、神聖なるもののみが真実である。哲学にとっては、真実なるもののみが神聖である。」
というが、芸術は、さしずめ作品そのものの感動が真実である。
これらはけっして相反するものではなくどれも宇宙や社会や人間の存在という
不思議を深く理解しようとするものである。また、直感と批判をどれもが必要としている。
ーつづく
・・・・・・・・・
2003年06月11日(水)
798,「ありがとう」の言葉 −1
長年生きてきてつくづく感じるのが「幸せ系の人」と「不幸系の人」がはっきり分かれていることである。
家柄、結婚の相方との相性、本人の品性等いろいろの要素がある。 多くの人を見てきて、不幸系の人に
感謝の念が足りない人ー特に両親に対する感謝が少ない人ーが多いことに気づいた。
両親に対する不信感ーが本人を不幸にしていることに気がついてないのが、
更に不幸を拡大している。その不信感が人間観になってしまうからである。
夫婦間のトラブルー権力争いーが子供を傷つけ、子供が恨みで感謝を忘れてしまうことも起因している。
人間には感謝はしないが感謝される事を求める傾向がある。
昨日図書館で何げなく借りてきた本を読んでいたら、あるページに目が釘つけになった。
以下に書き写してみる。
ー不思議なことに、心を込めない「ありがとう」でよいから2万5千回ほど言うと、
涙が出てきます。呪文のように言っておくと、その累計が2万5千回を越えたあたりで、
突然涙がどっとあふれてくるということが、多くの人にあるようです。
その涙というのは、短い人で1時間、長い人で3時間、平均2時間ほどで、とにかく止まらないのです。
こんなに自分の体から涙が出てくるものと思うほど激しく流れ続けます。
この涙が出終わって、そこからまた続けて「ありがとう」と言おうとすると、
今度は心の底から感謝の念がわいてきて、体中が温かい思いに満たされ、
本当に有り難くて「ありがとう」という言葉が出てくるようです。
さらに、心を込めた「ありがとう」が湧いたところから、2万5千回ほど
心を込めて「ありがとう」を言い続けると、なぜか突然「私」にとって奇蹟と思えることが起こる
ようになります。この話をあちこちでしていて、「実際言ったが、そんな涙出てこない!」
という質問を受けました。私はその人達に同じ質問をしました。
「2万5千回に到達する前に、不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わなかったですね」と。
その答えはすべて「言ってました」でした。
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06月11日(水)
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