ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2592, 日本の国民皆保険は世界に誇るシステム!
それは[私]の身体の状態・心の状態ではない。だが、一時間前の光景を思い出してもらいたい。
それを見ていたのは誰か。それは、いまこの光景を見ているものである。

この光景を見ている者がさっきあの光景を見ていたものである。
現在と過去という互いに否定的な関係がここに登場する。世界は過去と現在に炸裂する。
そして、同時にそこに[私]がこの炸裂を繋ぐものとして登場してくるのである。
「私」は知覚においては登場してこず(川を眺めているあいだは「私」は登場してこない)
川を眺め終わって帰る時に想起したときに初めて登場してくる。
 
痛みですら、現在と過去との炸裂で了解される。犬が[キャン]と鳴くことと、
[私]が[ウッ!」と呻くのではなく、適切に[痛い]という言葉を使用できるのは、
やがて痛みが治まったときに[痛かった]と言えることでもある。
そのつど刺激に対してのみ[痛い]という事ができ、[痛かった]という過去形を使えない者は、
実は痛いという言葉を理解していないのである。
こうして、「この」痛みが[私]の痛みに「なる」ためには、痛みがさったあとに
なお私が[痛かった]と語れることが必要である。痛かった[あの]痛みが「私」の痛みなのである。

他者とは、[別の私]のことである。それは、知覚においてではなく想起においてはじめて登場する。 
犬は他者ではない。想起能力のない生物は、いかに私と同じような身振りで苦しがっていても、他者ではない。
他者とは、私と同じように、現在と過去という楔を世界に打ち込むことができる存在者なのである。
 ー以上であるー

過去と未来を想起するものが[私]であり、「いま」という時点で前の「いま」を想起しているものが[私]になる。
従って、その想起のできないものは[私]を持ち得ない。
人間以外の動物には、[過去]や[未来]の想起ができないから、[私]はないのである。
このことより考えてみても、「いま」と[私]は非常に深く関連していることになる。
何気なく使っている[私]という言葉は、現在と過去という世界に打ち込むことができる楔である。 
それも現在[いま]、において。

この連休は、「いま」と「私」について、徹底的に考えてみた。
「私」にとって、非常に有意義な「いま(時間)」であった。

・・・・・・・・・
2004年05月09日(日)
1132, 「ライフレッスン」ー 12
 ー 幸福のレッスン
 
 不幸論なら書けるが、幸福論となると何か書きつらいものだ。
幸せ感なんてものは、一時の気分でしかないと思ってしまうからだ。
といって幸せを意識して求めてないと、その時間を知らないうちに過ごしてしまう。
また、せっかくの幸せを得る機会を失ってしまうことも事実である。
ハッピーはハプニングが語源という。偶然におきた中に幸福を見出すセンスをいうのだ。
良い偶然を得たことを喜ぶ気持ちと感謝である。考えてみたら、生まれてきたことも、いまあることも偶然?

後にある抜粋の、一番初めの「幸せを私たちは、不自然と感じ、それに値しないと
思い込むように子供の頃から洗脳されている」のかもしれない。
しかし、幸せ感を得ようとするなら、少しの訓練があれば、誰でも可能である。
心の底から「ありがとう」と言えているときが幸せなのである。
 
 幸せの格言の中にも多くの幸せに対する示唆がある。
「幸福人とは過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、
 不幸人とはそれの反対を記憶している人々である。」という萩原朔太郎の言葉が真髄をついている。
それは、訓練でも可能になるのだ。いま私が実行していることは、マイナスの気持ちや言葉が出てきたとき、
自動スイッチとして「ありがとう」という言葉を繰りかえしていうことにしている。
お陰で「ありがとう」という言葉を繰り返しいうことになってしまった。

知人に万年欝の人がいるが、過去の生涯の嫌なことだけを記憶している人である。
よく記憶していると感心するくらい憶えているのだ。 むしろ不幸にいることが、
自分の存在意義であるようにさえ思える。やはり基礎的な知識を持ってないからであろう。

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05月09日(金)
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