ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1954, ある首斬り役人の日記 −1
「ナチュラル」に遂行する態勢を形成しており、共演者どうしはおたがいに相手を
「当方の期待する所作を当然体現する筈のもの」と覚識する。

*劇である限り、何らかの形で行為の協演性がある。行為が役割分担になっている。
それはそれぞれのお互いに期待された役を演じるということだ。
しかし、その中でも、それぞれの個性ー主体がある。


ー役割行動と「内自的主体」

・あれこれの[[役柄]衣裳を脱・着する本体的主体とは、いかなる存在でしょうか。
さしあたり、[役割]を身にひきうけて所定の様式行動を演じる[俳優]本人です。
しかし、、芝居の俳優には舞台外の生活があるが、人生劇場の「俳優」
には[舞台外生活]はない。全てが[舞台生活]ですから話が厄介になる。
裸の当の固体は、単なる肉体的・物質的固体ではなく、‘魂’を内在せしめている
いる個体と認めるべきかもしれません。が、しかし、‘魂'とやらを認めても、
直接的な外部観察では当人の‘魂’の個性的な特徴は見えません。
他の諸固体と区別をする特質を‘魂’とやらに求めるわけにはいきません。

役割的行動とは、図式化していえば、おのおの内自的特質を具えた人格的主体が、
幕場的情況の場において、終局情景的目標を設定して手段的行動様態をつくりつつ
[決意的起動]を遂行するが、当の目標行為は、ただ単なる対自的な
[目的合理的行動]ではなく、[共演者たち]によって期待されている行動
[対他的「役割行動」]でもあるのが現実です。

そもそも[内自的に個性的な人格]とは何であるか、その人格性とは何であるか。

*要するに、期待に対する役割行動の中には演じる俳優が存在しているが、人生の場合は
それが同一の自分である。
それ故に、多くの問題が提示される。
俳優個人を‘魂’とやら、いうのか?
といって、その俳優を‘魂’とみれば、その個性ー固体を区別ができなくなる。

ーー以上が、行為の存立構造の概略である。

人生を、人生舞台に例えて、そこで演じる自分の役割と舞台における幕場(シーン)で
人間の実践における行為を解りやすく、説明をしている。
女の人生をみても、
幼女、少女、若い女、妻、中年、老女と、その時々変わっていく。
そして役割(学生、ギャル、妻、母、祖母)も、その都度、変化をしていく。
そして、同時に共演者も変化をしていく。
それが人生である。

この[新哲学入門]を読んでいると、覚せい剤を飲んだような?
意識が覚醒してくるような気分になる。

次は、[実践と価値評価]についてである。

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2003年08月09日(土)
857, 閑吟集-チロリチロリチンチロリ

 よのなかはちろりに過ぐる ちろりちろり (49)

 何ともなやのう 何ともなやのう うき世は風波の一葉よ (50)
 
 何ともなやのう 何ともなやのう 人生七十古来稀なり(51)
 
 ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に
                        あじきなき世や(52)
 
 夢幻や 南無三宝 (53)
 
 くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して (54)
 
 何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ (55)

 ー 大意ー
世の中は、ちらっと、瞬く間に過ぎる。
ちろり、ちろりと。
浮き世は「風波の一葉」でいいじゃないか。古希まで生きられる人間が「古来まれ」
でもかまわない。「水の泡」「露の間」のようなはかない「夢幻」の世。
「夢の夢の夢の」ような世間だからこそ、すべてを肯定して「狂へ」ばいい。

ー数年前にこの「閑吟集」の一節を読んで、この歌の中に流れている諦念と
反面、強烈なエネルギーにショックを受けた。
その翌年の年賀葉書に書いて出したりもした。
またコピーをして、知人に配ったり、手帳にはさんで、この一節を暗記をした。、
そして数ヶ月間近くいつも口ずさんでいた。
たまたまモロッコ旅行の飛行機やバス移動の中で一人口ずさんでいた。

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08月09日(水)
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