ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1877, 「ノート術」本当の極意 −2
自然から自己を解放した。現在その我々を捕らえているのは現実と化した脳である。
脳がもはや夢想ではなく現実である以上、我々はそれに直面せざるをえない。」
●唯脳論とはなにか
・ ヒトが人である所以は、シンボル活動にある。言語、芸術、科学、宗教など。
我々の社会では言語が交換され、物財、つまりものやお金が交換される。
本来は全く無関係なものが交換されるのは、脳の中にお金の流通に類似した、
過程がもともと存在するからであろう。
・ ヒトの活動を、脳と呼ばれる機関の法則性という観点から、全般的に眺めようとする
立場を唯脳論と呼ぼう。
・一般に自然科学者は、考えているのは自分の頭だということを、なぜか無視したがる。
客観性は自分の外部に、つまり対象にあると思いたがるのである。
「科学研究の結果」=業績は多くの場合、当人の脳の機能である。
しかも、その業績が誰にでも理解できるとしたら、それは誰の頭にも同じ機能が生じ得る
ということ。
そう考えると、「客観的事実に基づいた研究業績」とは、本当にはどこが自分の業績か、
判然としなくなる。
そのために、自然科学者は、自分と他人の脳のことなどは考えたくないのだろう。
・動物実験、つまり自然科学的手法だけでは、ヒトは理解できない。だから人文科学が存在する。
これは言語ばかりに頼るものだから、もめてばかりいる。ヒトの人たる所以をさらに
理解するには、将来は唯脳論に頼らざるをえないのではないか。
・医者は大体、理科と文科の間に挟まって往生するものである。両者を結び付けるのは脳であると
いうのが、この本を書いた私の動機である。
・ ホモサピエンスはここ数万年ほど解剖学的、すなわち身体的には変化していない。
従って、脳の機能も、数万年このかた変化していないはずである。
千変万化する学問分野を脳から見れば所詮同じ事をやっているはずである。
理科と文科とは脳の使い方の違い、使う部分の違いにすぎない。
・ それなら、脳を調べなくてはならない。その機能形式にある定まった法則性があれば、
そこに戻って理科と文科の話し合いがつくであろう。 ・・・・
言葉とは、大脳皮質連合野の機能である。発信された「言葉」から「受け手」は自己の脳の中に
「送り手」の脳にあったものと、類似の機能を起こさせようとする。
これがうまくいかないことが、人類社会のモメごとのかなり部分を占める。
これを解決するものは、脳の機能の研究以外にはありえない。
この本で私が述べようとするのは、文科系における言葉万能および理科系における物的証拠
万能に頼るだけではなく、すべてを脳全体の機能へあらためて戻そうとする試みである。
・レヴイ=ストロースは言葉の交換が、女性、物財の交換と並んで、
人類社会を成立せしめたと言う。
・お金にまつわる全ては、じつはヒトの作り出した約束事である。
・「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」
・考えているのは自分である。「実証されなければ科学ではない」。
そう信じているのは、そう信じている人の脳である。
さらに限定するならそう信じている人の意識である。
しかし、脳に存在するのは意識だけではなく、フロイドが発見した「無意識」もある。
数学の論理は、それがある形で脳内にあるからこそ、見つかるのである。
しかし、数学者はそのこと自体を「意識していない」。 「
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2003年05月24日(土)
780,またおきた「意味ある偶然の一致」
ー40歳の頃−1986年
過去をこうして書いていると、いかにして今の自分になってきた
かの謎解きを一人しているような気分になる。
この頃は第二の増築工事の完成をした年であった。
280室に向けて一番勢いがあった。
またギリギリの判断をして、後は野となれ山となれという気分であった。
時代はバブル直前の何ともいえないエネルギーが溢れていた。
コンピューターを導入した年でもあった。
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05月24日(水)
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