ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1546, 人生の最後に後悔すること
と確信できなければならないとした。
これは『定言的命令』といわれ、何らかの目的の手段としてではなく、
無条件に人間の心に生じてくる普遍的妥当性をもった命令である。
この反対が『仮言的命令』で条件付きの命令である。カントによればこの命令は目的を
達成するための手段として用いられているにすぎず、動機が不純なので善くないとされる。
人間は理性的存在であると共に、感性的存在である。
感性によって捉えられる現象界に属するものとしては、自然の法則に従わざるを得ないが、
他方、理性界に属するものとしては道徳法則に従って生きるべきである。
定言的命令に従うことが、人間の道徳的、倫理的に正しい生き方であり、
また、道徳法則は良心の命令であり、一切の目的や条件を超えたものである。

 人間が道徳法則に従うこととは、具体的には、様々な場面で理性が命じる義務に耳を傾ける
ことである。
カントは、道徳法則への尊敬だけを動機としてその命令に従うことを義務と呼んだ。
もし義務が果たせなかったとしても、人間は「果たすべきことを果たせなかった」
という良心の呵責を感じる。
そしてその時、自分はその義務に従うことができた、という自由を自覚する。
カントは
「道徳的な振る舞いは、自分の損得を乗り越えた結果、出てくるものでなくてはならない」
としている。
つまり、行動が道徳的に正しいかどうかを決めるのは、行動の結果ではなくて心構えなのである。
道徳律を心に留めて行動している、と自覚している時だけ人間は自由意志でいられるのである。
つまり、人間としてどう いう風に行為すべきか、と真剣に道徳法則に直面して、
初めて自由の存在を知るのだ。


*人間の尊厳*

 カントによれば、自律とは自らのたてた道徳法則に自らを従わせることである。
それは意志のもつ自由という特性によって、行為の主観的な格率(個人の行為を決定する原理)
を普遍的な法則に一致させることに他ならない。
言い換えれば、それは理性の命令であり、義務の声である。
「汝の意志の格率が同時に普遍的立法の原理に妥当し得る様に行為せよ」というのがカントの
説いた最高の道徳法則である。
それ故、自由な意志と道徳法則のもとにある意志とは同じであり、
真の自由は自律的自由を意味する。
人間が理性に従って道徳法則を自ら打ち立て、それに対する義務と責任から自律的に行動する
ところに真の人間らしさと自由がある。
カントは、この自律的な自由の主体、神聖な道徳法則の主体としての人間を人格と呼んだ。
そうした人格は人間以外の理性なきものと異なって、常に目的そのものとして絶対的価値を
もつものであり、単なる手段としてのみ扱ってはならないのである。
カントの主張した理想的な道徳的共同体である「目的の王国」は各人がそれぞれ自律的な人格を
手段ではなく目的として尊重する国家である。
「目的の王国」は、カントの言葉で言うと、全ての人間が「幸福を求めて生きるのではなく、
幸福に値する人間になれ」るように、自分に対しては道徳的完全さを求め、他人に対しては
幸福を促進する努力を続けることで建設される。


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 2003年06月27日(金)
814, 「ありがとう」の言葉 −6

 昨日、現地見学ということで千葉の越谷に行ったが、どうしても現地の場所がわからない。
たまたま通りがかりの自転車に乗った女の人に聞いたら、そっちに行くから案内をしてくれる
という。ところがなかなか現地のその場所がわからない。
普通なら、途中で「誰かに聞いてください!」というのが当たり前なのに、30分近くも
一緒にさがしてくれた。
人品のよい、かなりの人というのは勘でわかったが、こういう時の親切は本当に嬉しいものだ。
最後にお礼を言おうとしたが、逃げるように帰って行った。
その時ハッとしたのが、「ありがとう」という言葉が心から出ていたことだった。
さがしている間に何回も何回も「ありがとうございます」といっていたのだ。
「ありがとう」といい続けていれば有り難いことがよってくる。

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06月27日(月)
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