ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6445,閑話小題 〜11月3日の連休は、
するが、それは「世間」とは関係そのもののことであって、本質的には人間の
アタマに宿る共同幻想だだから。共同幻想とは、複数の人間に宿す観念である。
厳密にいえば二人の間だけでは、共同幻想とはいえない。たとえば恋愛関係
などのように、二人の対になる関係においては、世間は存在しない。
この二人の関係を、思想家の吉本隆明さんにならって「対幻想」とよんで
おくことにする。
 「世間」は三人称的な関係で、三人以上の人間が共同して生みだす幻想。
なぜかといえば、「世間のオキテ」といったようなルールや規範が存在する
ためには三人以上の人間を必要とするからだ。「世間」は幻想であるから、
ないと思えば、ない。「世間のオキテ」も、ないと思えば、ない。げんに外国
で生まれ、日本に住んでまだ間がない外国人には、「世間」も「世間のオキテ」
も間違いなく、ない。だから原則として外国人は、「世間」には入っていない。
かなり長く日本に住んでいる外国人でも、日本の「世間」のなかに入ることが
できるのは、まれである。外国人が「日本人はとっても親切だ」というのは、
かれらがはじめから「世間」に入っておらず、そもそも「世間」の外にいる
「お客さん」であるから、親切にされるにすぎないのだ。 問題なのは、
「世間」が具体的なものではなく、共同幻想であるがゆえに、それを否定
するのが相当にむずかしいということである。具体的なものなら、捨てるか、
近づかないようにすればいいが、共同幻想は観念そのもののことだから、
そうはゆかない。簡単に捨てることができないし、そのなかで生活している
以上、近づかないでいるわけにもゆかない。だからこそ、「世間」の存在は
なかなか意識化できないのだ。しかし、これを意識化する方法がある。
それが、「世間学的エポケー」である。・・・≫
▼「あの老人、一度も恋をしたことが無いんだって!現実に溺れすぎて」
 という強烈な言葉がある。共同幻想の前の「対幻想」の幻想である。
その共同幻想も、何も考えもせず、ただ、成り行きで染められた幻想で
しかない。Uターンで地元に帰った時に感じたのが、城下町という特殊の世界。
専門が社会学だったことと、10年間の外界経験から、これが特殊ということ
が分かっていた。で、アウトサイダーに徹し、そして、事業場を新潟にした。
これが「世間学的エポケー」これも事業設計、人生設計の一つ。
予め世間を特殊世界と割切って捨てれば、これほど楽なことはない。一般的
には御隠居になって気づくが、気づかないままが殆ど!あのゾンビの群れ。

・・・・・・・
4616, 君は1万円札を破れるか? ー4
2013年11月05日(火)
  ー君は1万円札を破れるか? 
     〜お金の洗脳を解くと収入が倍増するー 苫米地英人 (著)ー
   * 年収は人の価値判断の基準になるのか?
 森の生活(経済社会)から退いて、サバンナ(隠居生活)に出て
気づいたことは、これまで、「人の判断基準に、手持ちの資産と、年収を
価値基準にしていたこと」である。資本主義社会の洗脳である。
「格差社会」「勝ち組・負け組」の言葉の背景に資本主義社会の価値観がある。
それも一線を退けば、その比重は低くなる。お金を気にしないで済む収入と、
蓄財が幾らかあれば、それ以上は皆、同じ。森の生活では、稼ぎが、その人の
価値と錯覚をしてしまいがちになる。他人との比較で、その額の差が人間の価値
と錯覚をしてしまう。「お金には絶対的価値がある」「お金はすべてのモノの
価値を規定する物差し」という洗脳が長年かけされ、それを疑おうともしない。
お金で、自分の労働や価値を規定され、振り回されている状態は、宗教に洗脳
された信者と同じ。 著者は、ここで、現代社会における「価値」を
「物理空間における価値」と「情報空間における価値」と分ける。
物理空間とは、体で触れることができるモノの世界。情報空間とは、脳や心の中
に存在する様々な概念が作る空間。米を例にとると、タイ米と魚沼コシヒカリ。
その価格差は10倍近いが、物理的な味と栄養は、せいぜい二倍?

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11月05日(月)
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