ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4054, 吹き来る風が私に云う
  『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著 −3
「理性の極限として自由に行き着く」とは、驚きだが納得できる。 そしてカントも自由が「創造的能力」と看破。
自由は第一原因であることから、当然の帰結である。  自分の真にしたいことを人生を通して貫き、
創造性を発揮することが自由であり、それが理念であり、そこに理性が働くことになる。
 *「なぜ・なぜならば」の極限としての自由  ーP・205 から
≪ 自由は第一原因である。原因は理由であり根拠であり、「なぜ」「なぜならば」であったから、第一原因としての自由は、
意外に思われるかもしれないが、「なぜ」および「なぜならば」の極限である。日常のことばの使用法からすれば、
「なぜ」は単なる疑問詞であり、「なぜなら」も単なる接続詞にすぎず、これらが自由とじかに結びつくことはない。
それを思えばよくよく意外な地点に到達したものである。しかし、「なぜ」「なぜならば」「理由」「根拠」「原因」、
そして「第一原因」と、一連の鎖を極限までたどってくると、おのずと「自由」に逢着せざるをえなかったのである。
これらの鎖の項は、いずれも理性のメタモルフォーゼ(変容・化体)である。理性は自由の最終的メタモルフォーゼである。
そして、自由はあの「なぜ存在するものがあって、むしろ無ではないのか」というライプニッツ以来の問いに対する、
考えられうる「なぜならば」の中で究極のものである。 その意味で、先にアプリオリな判断が、ライプニッツによる
十分な理由の法則の成長形態であることを確認したが自由はその成長の極致と言ってよい。
われわれ独自の定式で言えば、「なぜ『なぜ』なのか」という問いに対する究極の「なぜならば」でもある。
この背後に関しては、哲学はソクラテス以来の率直な「無知の知」をもって答える以外にない。
究極の「なぜならば」であるかぎり、そのさらに「なぜ」は少なくとも理性にとっては無意味である。
カント自身も、「なぜ」自由が可能なのかは、答えることが出来ないとした。自由が「なぜ」(理由=理性)の極限であれば、
理性にとってそれ以上の「なぜ」はあるはずがない。あえてその背後に踏み込もうとすると、理性の限界外に越権を犯すことになり
言葉が空転する。そこには、理性を満足させうる答えはない。 というのは、理性を満足させうるのは再び理性のみであり、
理性の限界外には「非理性」があるだけだからである。 ちょうど、鏡に万物が映し出されるが、しかしその中には何も
実在していないように。 非理性によって満足するものがあるとすれば、それはさしずめ「構想力」(イマージネーション)
であろうが、それを満足させることができるのも、やはり逞しい構想力であって理性ではない。・・・・
 たしかに自由は無からの創造に類似する。超時間から時間への作用である自由は、どこか神による無からの創造を思わせる。
カントも自由が「創造的能力」であることを、はっきり認めていた。 しかし、理性的存在者としての人間は、その自由ゆえ
自己の行為の創造者でありえても、世界の創造者ではない。≫
〜「よく遊び、よく学び、よく遊ぶ」これが創造的能力を発揮する! この「よく」が理性? 親、社会の刷り込みからの自由?
・・・・・・・・・
2948, 報道されないニュース
2009年05月01日(金)  
 ネットで「商業販売、過去最大24.0%減に」をみて驚いた。 大手の新聞記事を探したが見当たらない。
報道管制をしているのである? メーカーが40〜50パーセント減、流通・サービスが30〜40パーセント減、
と言われているが、あまり表面だった報道はされていない。ところが、共同通信社のHPに、この記事があった。
スーパー、百貨店などが24パーセント減とは、マスコミは間違っても報道はしないが、実際は、そんなところか?
日本は、とんでもない領域にあるということだ。 時間の経過と共にツルベオトシになっている。
これに豚インフルエンザときたら、5〜6月は大荒れになってしまう。即死の企業が多出するのは必然である。

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05月01日(火)
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