ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[394738hit]

■3713, ジャズについて −8
それが本当にラッキーだったのだろうか。ゼロコストで借りたと思って引き出したお金には高い金利がついていた。
為替変動によって、数割も、ものによっては数倍にも元本額が膨らんでしまった。・・・ 》である。
 もう一つは、「おわりに」の政府を「一法人」に例えた話である。
《 政府は一個の法人に過ぎないと言う事実を見過ごして、「国民が1570兆円の金融資産を持っているから、
 1570兆円までは国債を増やしても大丈夫」などという戯れ言に、ウカウカと乗せられて国を誤ったのが、この結果。
町内に資産が16億円の資産家が住んでいたとして、そこに住む札付きの悪党が合計16億円の借金をしていいとは限らない。
悪党と資産家が同じ町内で住んでいても、別個の家計を持ち、独立した人間であるからである。ところが、こんな滅茶苦茶な理屈でも、
成り立つ場合がある。 
(字数の関係でカット2008年5月26日)
・・・・・・・・
2609, サルトルについて、考えてみる ー1
 2008年05月26日(月)              ..φ(ー ̄*)カキカキ_φ(* ̄0 ̄)ノオハ
 最近は、サルトルは人気がないが、私が学生時代は最も人気のある思想・哲学者であった。サルトルといえば「存在と無」である。
その中で説かれている「対自」と「即自」と「対他」というキーワードがある。これらの言葉に出あった時の驚きを今だに
忘れることが出来ない。この言葉から「自分の裂け目」を言葉で初めて知った。
 ・そのままの存在が「即自」。 犬は己を犬と思わない。 自分が何者かを問わない存在。
 ・その己に語りかけるのが「対自」になる。自分が「?である」ことを意識して生きている存在。 
 ・そして、他人から「もの」として見られる存在という意識が「対他」。 
「実存が本質より先立つ」人間はまずは生まれて「存在」となる。その後に、それぞれの本質が作られる。
実存主義だが、サルトルは、 それで、「私」という殻から抜け出て「外に出よう」と....。 
この辺が学生時代の「私」の理解である。当時、これを読んでいるうちに少しオカシクなりかけた記憶がある。
先週は、面白いので手持ちの哲学書入門書の何冊かを引っ張り出して、サルトルに集中してみた。
なるほど大戦後に一世を風靡するだけのことがある。共産主義の理解者として、左派のイメージが当時あったが、
現在振り返ってみると、それほどでもない。 さて、この一週間で サルトルで思い出した知識といえば、
・「主体性」の哲学であること。
・デカルトは「あらゆるもの疑ってみた結果、疑っている自分、そのように考えている自分がいる、ということだけは疑うことが
出来ないのではないか」と考え、「私は考える、ゆえに私は存在する」とした。
 それをサルトルは批判をした。彼は「私が、何かを見ている」「私が何か考えている。」の「私」が疑問という。
「何か考えている」は確かだが、「私」は振りかって「反省」をしていた時に生まれる対象。つまり反省している意識とは、
意識自身を対象とする意識なのである。「私とは一人の他人」なのである
・人間は自由の刑に処されている。「人は何も決められてない投げ出されて、一から自分をつくりあげていくしかない。
 それが人間の「自由」である。投企とは、現在の自分を乗り越えるため未来へと 自分を投げ出していくこと。
 人生を前向きに生きていくことということである。
・アンカジュマン=自分の選択をする以上、自分の行動には責任を負わなければならない。
 と同時に、社会の未来に対して責任を負うべきである。
  ー 等々である。                   
       次回は、新たに知ったことを要約してみる。     ヾ(^ω^*)
・・・・・・・・・・
2007年05月26日(土)
2244, 耐震偽装 ー2
          ゜・。*ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ!!。
この本の、面白さは著者の藤田東吾がHPに時系列で記録を残していることである。
だから政治家や役人が奇麗ごとをいっても、その時やりとりした記録には真実の迫力がある。 

[5]続きを読む

05月26日(木)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る